novel

□序章
1ページ/1ページ

序章

慶国慶主景王赤子がその玉座につき、赤王朝を開いてから、35年の月日がたった。数は減ったものの、まだ時折妖魔の姿が見られる。国土の安寧にはまだ程遠いが、即位当初に比べ他国に脱出していた人々もだいぶ戻ってきた。田畑には農作業にいそしむ人々が歌う声が響き、街には活気があふれ、この国が着々と復興へと向かっているのは明らかである。

 その日、陽子は昨年の末に慶の虚海側、東端に位置する港町、呉渡を襲った蝕の後始末に頭を痛めていた。蝕の与える影響はその時々よって異なるが、今回のものは殊更に被害が大きかった。激しい風雨だけでなく、その地方の水源である主要な川が決壊したため、呉渡一帯の田畑はほぼすべてが水没してしまったのだ。しかも、呉渡は海路の要所。そして、北部の冬は厳しい。その影響は、和州だけでなく、隣接する健州にまで及び始めていた。この調子では、人々が刻一刻と迫りくる冬を越すのは絶望的だった。
「失礼致します。主上、少しよろしいでしょうか。呉渡の件ですが・・・」
陽子が物思いにふけっていると、突然声をかけられ、否でも意識が現実へと引きもどされる。姿勢を正し、声のしたほうに顔をむけると、そこにいたのは自国の冢宰。
「どうした。何か進展でもあったか。」
「いえ。今のところは、まだ。・・・・・・・・主上、お人払いを。」
いつも歯切れのいい浩瀚が口ごもり、それきり押し黙ってしまう。いわれるままに人払いをしてから、陽子が視線だけで話の先を促すと、ようやく重い口を開いた。
「はい。この蝕でどうやら海客が流されてきたようです。今回、被害が異常に大きかった事と何か関係があるのかもしれません。」
その言葉に陽子は軽く眼を見張る。
海客。随分と久しぶりに聞いたような気がしてくる。その昔、自分が海客としてこちら側に連れてこられ、さまよったことが思い出される。それがなんだか、遠い過去の瑣末な出来事のようで、まるで他人事のような気すらして、陽子は内心自嘲する。自分はいつしかこちら側の人間になっていたのだ。
しかし、
「わざわざ人払いをするまでのことでもないだろう。それに、・・・おまえの方がよく知っていると思うが、蝕の大きさに海客は関係ないだろう?」
眉間にしわを寄せる陽子を見て、さらに浩瀚が続ける。
「確かにそうなのですが、今回の蝕の被害は、以前に延王君が泰麒帰還のために蓬莱へお渡りになったときの様に似ております」
「・・・・・・・・・・・・嫌だな」
陽子がぼそっとつぶやくと、浩瀚が苦笑する。
「その予感はどうやらあたっているかもしれませんよ」
「?」
「その海客に対していくつか、奇妙な目撃例がかなりの数が挙がっているのです」
「・・・・・・・目撃例?」
「ええ。それが、“麒麟が攻撃してきた”と、俄かには信じがたいものばかりなのです」
そう言って、浩瀚は持ってきた書類を見せる。
「へっ・・・・・・・?」
今度こそ陽子は完全に目を見開いた。この世界で、麒麟を見たということあるとしても、それが攻撃してきたなどということはありえない。元来、麒麟は正義と慈悲の生き物で、他者に対して決して害意を抱くことはない。血に弱く、それに病むことすらあるのだ。あってはならないことだと聞いている。
「真偽のほどはともかく・・・・・気になるな。」
「ええ。」
その噂に、まだ確証はない。だが、多くの目撃例が挙がっているのだ。半分をただの勘違いとしてもおかしい。
「・・・・・・・・・その海客一味について、至急調査してくれ。」
「御意」
浩瀚が立ち上がろうとすると、さらに王の声がかかる。
「あと、延王にも内々にお伺いを立てておいてくれ」
浩瀚はただ深く頭を垂れ、そして足早に退室していった。
陽子は自分以外、誰もいなくなった室をみやり、前にもあったようなこの光景に軽く溜息を吐く。冢宰の持ってきた、この奇妙な話。この35年で得た知識と経験、この世界の理から考えると、ただの噂と一蹴してしまうこともできた。だが、これは単なる直感なのだが、陽子にはそれがただの噂とは思えないのだ。
善悪はともかく、この奇妙な来訪者たちの存在に純粋に興味があったというのも確かだ。
もう一つ溜息を吐き、しばらく窓の外の雲海をただ一人眺めていた。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ