「助けて…」
誰にも聞こえることのない呟き。夜の帳の中、少年は息を荒げて悶え、白いシーツを握って皺を幾筋も刻み付けていた。
心の内なる闇を引き摺り出したのは、少年自身。その闇に…今、彼は呑み込まれそうになっている。
『なんで拒むんだよ』
心の内から呼び掛けてくる声。その声は、自分自身のそれと酷似していて。
しかし――酷似していようと、それは別の声だ。
「嫌だっ…お前を受け入れたら、俺は俺じゃなくなるっ…」
『なぁに言ってんだよ。今までオマエは、何度もオレを受け入れたじゃねぇか。それを何故今更拒む? オレに身を委ねた時のあの快楽を、忘れたのか?』
愛撫されているかのような甘い痺れが体を包む。まるで内部から犯されていくような、そんな錯覚に陥る。
闇に――邪王に身を委ねること。それはイコール、溢れ出す殺意を受け入れることを意味する。あの頃はそれによって、何もかもを忘れることが出来た。殺戮の最中は、何もかもが気持ちよかった。
あの頃――帝国側に居た頃は。
だが、今のヘッポコ丸は帝国側の人間ではない。一度裏切ってしまった仲間達によって殺意は静観とし、そして再び仲間の元へ戻ったことで、殺意の暴走は――邪王は、もう消えてしまったのだと思っていた。
しかし、そうではなかった。邪王は消えることなく、ゆっくりとヘッポコ丸の体を蝕み続けて、そして、内部から囁き掛けてくるのだ。
殺意に――自分に身を委ねろ、と。
そうすれば色々な柵(しがらみ)から解放される、と。
「今の俺にお前は必要ない…だから、もう、消えてくれよ…」
『ハハ、分かってないなぁオマエは』
拒絶の言葉を、邪王は聞き入れない。
『オレに身を委ねた時のことを思い出せよ。気持ちよかっただろ? スッキリしただろ? 心が洗われただろ? 血を浴びて、最高の快楽を得られただろ? …オマエは、どうしてオレがこうして存在しているのか、分からないのか?』
邪王からの問い掛け。ヘッポコ丸は聞きたくない…と、自分の耳を強く塞いだ。
『確かにキッカケはバブウから与えられた善滅丸だっただろう。だが、ここでキッカケなんてものは意味を成さない。全ては結果だ。オレがこうして生まれた理由こそが全てだ。――分からないのか? ヘッポコ丸』
「嫌だ…違う…俺は…」
涙が頬を濡らす。
囁きを払おうと耳を強く塞ぐ。
それでも聞こえる邪王の声。
『理由は簡単。オマエがずっと前からこうすることを望んでいたからだ。誰かを殺したいと思っていた。誰かを壊したいと願っていた。その負の感情が、このオレを作り出した。…違うのか?』
「違う! 俺は、お前なんて望んでない!!」
『ハハ、頑固だねオマエも』
瞳を閉じれば現れる悪の化身の姿。ニヒルな笑みを浮かべて、ヘッポコ丸の乱れる心をさらに乱そうとする。
『ねぇ…どうしてそんなにオレを拒む?』
優しげな声色での問い掛け。頬を撫でられ、ピクリと体が揺れる。
幻だと、まやかしだと、分かっているけれど。
触れる箇所からは、温かさなんて微塵も感じないけれど。
「だって…お前を受け入れたら、俺はまた…」
殺戮を、繰り返すのかもしれない――
それが、怖いから。苦しいから。
自分が生み出して、一時はそれに身を委ねないと壊れてしまいそうになった…だから、愚かにも、受け入れた。
しかし、正気に戻れば、血に濡れていた自分。意識せずとも思い出す、ヒトヲコロス感触。
『またあんな思いをするのは、嫌?』
「嫌、だ…」
『ふーん…それはさぁ、自分のため?』
問われた言葉に体が震える。
『違うだろ? オマエは、仲間から離れたくないんだろ? …あぁ違うか。破天荒と…かな?』
「っ…」
破天荒。
一度血に汚れた俺でも、ずっと好きでいてくれた人。
そんなこと関係無く、誰よりも愛してると言ってくれた人。
大切な――人。
『そうだよなぁ。オレを受け入れちゃったら、アイツとも会えなくなるかもしれないもんなぁ。オマエ、そんな些細なことでオレを拒んでたわけ?』
「…………」
『黙り(だんまり)決め込む気? ふーん…けどさぁ、破天荒はもうオマエなんか愛してないと思うけど』
「ぅ………」
『分かってんだろ? 最近破天荒が夜な夜な居なくなる理由。――女のとこに、行ってるんだろ?』
呟かれた言葉に、心臓を鷲掴みにされたような戦慄が走った。
近頃、破天荒は俺に素っ気ない。あの頃の―初めて出会った頃のように、冷たく、無関心に接せられるようになった。そして毎夜、何処かへ出掛ければ、甘ったるいコロンの香りを身に纏って帰ってくるのだ。
そう、破天荒は――俺に、愛想を尽かしたのだ。
『分かってんだろ? もうアイツの心に自分が居ないことぐらい。それでもアイツの側に居たいわけ?』
「う…ぁ……」
『…なぁ、オマエ分かってんの? ―――オマエは今、破天荒にも、見えない女の影にも、憎しみを抱いてる』
「………!!」
『そして、その憎しみはオレの動力源だ。オマエの負の感情を一身に纏って生きるオレだ。そういう感情を持つ限り、オマエはオレから逃げられねぇよ?』
ぞくり――と、背中が震えた。
囁かれた言葉は、冷たくも、優しさを含んでいるように思えた。
「……じゃ…おぅ…」
『ん? なんだ?』
ヘッポコ丸から発せられた名前。涙に震えて掠れていたけれど、邪王にはしっかりと届いていたようだ。
「お前に任せれば、こんな俺は居なくなるの…?」
『………?』
「こんな――他人に酷く依存して、裏切られて哀しむしか…憎しみしか抱けない自分を、消すことが出来るの…?」
『…ハハ、なに? 受け入れる気になったわけ?』
「うん。……もう、いいよ」
こんな醜い自分なんて、消えてしまった方が良いに決まってる。
それならば――邪王を受け入れた方が、きっと正しいんだ。
『交渉成立だ。オマエはなんの心配もしなくていいさ。オレが××××…』
邪王がなにか言っているようだったけど、俺には聞き取れなかった。酷く眠くて、瞼がとても重くて。
押し寄せる睡魔に身を委ねて、俺は意識を手放した。
次の目覚めは、来るのだろうか――?
『さぁ………ショータイムだ』
――――
君を追い詰める影
the GazettE/SHADOW Y U T