月の巡る丘にて
□月の巡る丘にて
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風に冷たさが混じりはじめた、晩秋のとある日だった。
年間を通して暖かい気候の庚海だが、冬も間近となり、吹き付ける風は強く頬を打った。それでも風のある日は突き抜けるように空が青くて、気持ちがいい。
空気が透明に澄んだ秋晴れの朝を、シノとリンは旅立ちの日に選んだ。
「すごい風だな……!」
リンの隣で、シノは声を張り上げるようにして言った。
そうでもしないと、すぐ隣にいる相手にさえ声が届かないのだ。
頭一つ分低いところからリンも大声で返事をしてきたが、その拍子に激しい海風が波を立て、小型の廻船は木の葉のように揺れた。
雲が速い。星の位置があまりよくないらしく、海路は避けろと事前に月剣様に言われていたのだが、帰路を急ぐシノの強い希望で船を出すことになった。隣で蒼髪を靡かせているリンもまた、気が逸っていたはずだ。
苓王都にいる彼の兄――君影から手紙が届いたのは、数日前のことだった。
リンはそれを読み、すぐさま出立を決めたらしい。
迷いは見られなかった。苓の王都にリンを招く旨のそれは、おそらく彼が待ち詫びていたものだったから。年の離れた兄はリンの憧れそのものであり、彼の下で働くことは、幼い頃からのリンの夢でもあったことをシノも知っていた。
誰も反対はしなかったけれど、重ね重ね憂い言を言う母親を振り切るのはシノから見ても大変そうだった。リンの母親は少々神経質な人で、君影の事は頼もしく思い信頼している様子だったが、リンの事はいつも過分に心配した。頼りないと思っているようだが、それにはシノも同感だ。
リンは所謂――『普通』とは言い難かったから。
幼馴染である自分が王都まで送ることを条件に、彼女にはなんとか納得してもらった。そうして二人連れ立って庚海を出たのが、二日前だ。
「――この分だと明日中には阿南の港につくだろうよ」
甲板に立つシノは、波の飛沫を見つめながら言った。
風は強く、帆船の帆は大きく膨らみ、はためいていた。
十六になったばかりのリンは、シノより五つ年下だ。しかし自分が比較的大柄な体躯であることを差し引いても、リンは年よりかなり華奢に見えた。
リンは、誰もがその姿を一目見れば息を止めるほどの美少年だった。
しかし容姿に似合わず性格ははっきりしており、気の強そうなつんとした表情と、儚げな雰囲気との落差には皆一様に怯む。
それでもそこに香る強烈な色香は噎せ返るほどで、少々不憫な思いで、シノは彼を改めて眺めた。
彼のほっそりとした体躯からは、不思議な甘やかさが匂い立ち、今咲いたばかりの白百合のように楚々とした艶に照り輝いて見えた。
彼が本当に少女だったら、その姿を一目見て恋に落ちない男はいないと思う。実際今も、こちらを貫く周囲の視線は痛いくらいだ。
幸いシノはまったくもってそっちの趣味はなかったし、十五で庚海を出て行ってしまうまで、君影を兄貴分のように慕っていたのもあり、天地がひっくり返ってもリンに変な気を起こすような事はないと言い切れた。
むしろ絶対に彼に手を出さないという保証があるからこそ、この旅の同行者に選ばれたといっても過言ではない。
そんな経緯もあり、わざとリンに対して何かと先輩風を吹かせるフリをするシノだったけれど、彼を弟替わりだと思ったことはない。月剣様の開く学塾では同級だったせいもあり、対等な友人関係だとお互い思っている。
白曜の貧しい街の出身であるシノが苓に一人で出てきた目的は、いわゆる出稼ぎだ。藍街に残してきた妹に仕送りをする為、炭焼きの雑役をしていたまだ幼いシノを偶然目に留め、庚海の学塾に誘ってくれたのが月剣様だった。
それ以後昼間はリン達と学技に励み、夜間は炭焼きの仕事に戻るという生活を、シノは五年間続けてきた。それを苦に思った事は本当にただの一度もなくて、学びの機会を与えてくれた月剣様達にはただただ感謝の思いしかない。
シノとリンが意気投合したのは、彼が妹のカノと同い年であったせいもあるかもしれない。
今回のリンの王都行きも、同行を申し出たのはシノからだった。
「……よかったの? 仕事も学塾も放り出して」
リンは透き通った羽のような淡い蒼髪を靡かせながら、少し申し訳なさそうに訊いてくる。シノは古びた甲板の手摺に体重を預けたまま、そちらを見ずに答えた。
「藍街に置いてきた妹に会いに帰らなきゃと思ってたから、いい機会だよ。お前のお守りはついでみたいなもんだから気にすんなって」
「……お守りって」
「言っとくけど、お前が一人旅なんて危なっかしすぎるからな。自分で思ってるより相当危険だってのをちゃんと自覚しろよ。そんなナリで不用心にふらふらしてると、すぐに変な奴に騙されて売っぱらわれるぞ」
リンとは正反対の、硬い手触りの髪をわしわしと掻き回しながら、シノは口を開けて笑った。決して馬鹿にしてなどいないが、小さい頃から言われ慣れているらしいその言葉に、リンもいい加減にうんざりな顔をした。
「……やめろよ、シノまで」
「なら護身用でも何でもいいからなんか得物持ってこいよ、せっかく剣が使えるんだからさ」
リンは白い目でこちらを睨んだまま、無言で首を横に振った。
シノと同じような事を過剰に心配する両親や兄の君影にしごかれた為、リンの剣の腕はかなりのものである。しかし当のリンには、戦う意志はまったくといっていいほどなかった。
人を斬ることなんてできない、と以前彼が神妙な顔付きで言っていたのを思い出す。誰かを守る為に人を斬るという矛盾を、受け入れる事ができないのだそうだ。
未熟とは思わないが、それは彼がその必要に迫られたことのない、恵まれた環境で育ってきたという紛れもない証拠でもあることは、本人も一応自覚しているらしい。
昔から争い事が苦手な彼が剣を振り回すなんて……たしかに向いていないだろうと、実際シノも思う。月剣の学塾で学んだリンは、力ではない何か別の方法で、君影の為にささやかにでも役に立てればいい、と言う。
シノもそれには全面的に同意だった。
そんなシノ自身も剣技はそう得手ではなく、そういうのは君影のように選ばれた特別な人間に任せておけばいい、というのが正直な思いだった。