夏雲奇峰

□夏雲奇峰
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 人気のなくなった梵華宮の廊下を一人、息を詰めて歩む飛喃は、地下に向かう。自分の影も見えないほどの暗闇に呑み込まれ、雑多な感情が溢れ出しそうだった。
 やっと会えた峰寿は、飛喃の全然知らない男みたいだった。
 自分を見る時の彼の硬い表情を思い出すと、自分の存在がひどく小さくて薄っぺらなものに思えてくる。
 峰寿に、何かを期待していた訳じゃない。優しい抱擁や、甘い言葉を望んでいた訳じゃない。
 何でもいい……信じられるものが欲しかっただけだ。
 ……だけど今となってはもう、彼に愛された日々すら、幻だった気すらしてくる。
 壁に面したいくつかの鏡に映った自分の姿は、黒い袍を纏っているせいか闇に紛れてしまいそうで、何も見えていないかのような瞳も、ぼんやりとどこか虚ろだ。
 やがて目的地の倉庫に行き着いた飛喃は、周囲を確認してからするりと扉の中に体を滑り込ませた。ほとんど手探りで進むしかないほど何も見えない中でも、もう隠し扉の位置は分かっている。
 右手の指先をそっと壁に這わせながら進む飛喃は、そこに立てかけてある鉄剣を見つけ、その柄を掴む。
 けれどその時……焦げた蝋芯の残り香のようなものに気付いて、ふと周囲に視線を巡らせた。

「――そんな物騒なもん持ってどこ行くんだ?」

 低い声は笑みを含んでいるようで、ひやりとするような鋭さもある。
 けれど飛喃は背後の声の方を振り返ると、「丸腰では危ないから」と落ち着いた声で答えた。するとぽうっと火が灯り、その場に香夜だけでなく、李庵もいたことを知る。

「理由を教えてくれ。このまま行かせるかどうかは、それ次第だ」

 目が慣れて来ないせいで表情までは分からずとも、李庵の方は深刻ながらに心配を含んだ声色だ。

「峰寿鼎佐に胸張って言えることなのか?」と追及してくる香夜が一歩近づいたのが分かり、飛喃は微かに目を伏せた。

「……俺を、待ってるんだ……」

 仙に付き合って数日おきに城外の調査に行くようになってから、半月が経つ。いつか彼らに知られることは覚悟していたけれど、止められても譲る気はなかった。
 ……俺が行かないと……仙は彼女の使命を果たせない。

「答えになってねえよ。あのお姫様に付き合うつもりなんだろうが、何の為に飛喃がそこまでする必要がある?」

 敢えてこちらからは明言しなかったが、香夜は現状だけを見て、この飛喃の行動が仙の為であることを察したらしかった。
 飛喃を射抜く紅い瞳が、夜の森で遭遇した獣のように光る。

「俺は峰寿鼎佐の三将だ。あの方の意に沿わないことに、協力はできないぜ。勅令ってんなら別だけど……飛喃が三将を勅令で動かせるかな」

 だけど挑発めいた台詞にも、心は少しも動かなかった。
 ……少しでも、関わっていたかったから。
 彼女の力になることで、峰寿と繋がっていたかった。惨めだって分かってる。だけど何もせず黙って成り行きを見守っているなんて、できなかった。
 そんな飛喃の内心を読んだように、香夜の纏う気配が明敏に尖る。

「そんなことしたところで、峰寿鼎佐はお前のとこには戻ってこないぜ。現実的に考えろ、あの人が自分のお荷物になるような相手を傍におくと思うか」

「俺は、峰寿の邪魔にはならない」

 静かに反論した飛喃の言葉は、「そう思ってんのは自分だけだぜ」とすぐさま斬り捨てられる。
 あからさまに嘲笑してくる男を、飛喃もまた正面から見つめた。
 そんな己の目に、今や彼に負けぬほど熱いものが灯っていることを、自覚していた。
 ……だってもう、爪の先がちりちりと焦れている。
 口数が少ないから大人しいと思われがちな飛喃だが、実際は決して思慮深い方ではない。どちらかというと短気で熱くなりやすいことも、自分で分かっているつもりだ。
 だからゆっくりとした呼吸を心掛けているつもりなのに……だめだ、胸の真ん中が燃えるように、熱い。

「行かせないぜ、ここを通りたきゃ俺を斬ってからにしろよ」

 隠し扉の前で立ちはだかる香夜は手を伸ばし、飛喃と同様、壁面に掛けてあった十字鍔の鉄剣を掴んだ。

「――香夜、相手は鼎だぞ」

 目が闇に慣れぬうちでも分かる、飛喃の纏うひたりとした覇気を察したらしい李庵が、咄嗟に声を上げる。だけど香夜はそんな制止など完全無視だ。

「さっきも言ったけど、俺は峰寿鼎佐の授権代理である三将だ……その権限がある。今の飛喃には負ける気がしないしな」

「何をする気だ……」

「何って、久々にお手合わせ願うんだよ。なあ飛喃? 査定で負けた以来だぜ」

 唖然とする李庵と黙る飛喃の前で、香夜はすっと鉄剣を鞘から抜いた。動作はゆったりとして滑らかなのに、三将らしい気迫に満ちた彼の佇まいに、飛喃も無意識に、埃っぽく滑りやすそうな足場を確認していた。
 既に手に掛かっている鉄剣の鞘を、飛喃もきゅっと握り締める。
 それは掌の皮膚に張り付くようで、ずっと押しこめていた純然たる熱が、全身に行きわたるのが分かった。
 飛喃まで臨戦態勢に入ったのを見て、李庵が上擦った声を上げた。

「冗談だろ……鼎に剣を抜くなんて綱紀違反だぞ。飛喃も、少し落ち着けって……」

「そう目くじら立てるなよ。ただの模擬闘だ。そもそも閉邸中の今、誰が誰を裁くんだよ、お前か?」

 そう言い捨てた香夜の手は青白く光る刃を翳し、飛喃もまたそれに煽られるように、鞘を捨てた。
 気付けば部屋の状況や広さを確かめ、いつもとは微妙に異なる刃長の得物で、既に目の前の男との間合いを測っている自分にも驚くけれど……それを見て満足そうに笑む香夜も、正中で剣を構える。

「お前は峰寿鼎佐のことを何も分かってない……飛喃。簡単には行かせないぜ」

「……」

 その言葉に、一番脆い神経に直接触れられたような気分になり、飛喃もまた、彼に剣の切っ先を向けていた。
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