夏雲奇峰
□夏雲奇峰
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金色の霧の海が、空を押し上げる。
矢のように降り注ぐ朝陽が、絳雪軒の御花園の木々らを染める中、肌寒いとすら思える露台に出た峰寿は、そこに佇む小さな影を見つけた。
彼女は懐から取り出した笛にそっと唇を寄せると、命を吹き込むように、音を鳴らす。
笛の筒から生み出された響きは風に乗り、伸びやかに庭園から城下までを駆けた。絳雪軒にて、今まさに盛りと咲き綻ぶ梔子や鳳仙花の花弁は、彼女の背後で瑞々しく光って見える。
少し離れた場所から、しばらくその光景を見ていた峰寿だったが、ふと顔を上げた彼女がこっちを振り返る。
峰寿を見つけて目を見開いた仙は、ずっと見られていたことに対する仄かな恥じらいを見せつつも、わざとらしくすまして笑った。
「お兄様……ずいぶん朝が早くていらっしゃるのね」
「朝っぱらから笛の音を聞かされればな」
そんな風に返したが、今起きたばかりでないことは彼女にも明白だろう。暗い色の袍の襟一つ乱さず歩み寄っていくと、そんな峰寿の隙のなさに呆れたように、仙はふっと息を吐く。
このまだあどけなさの残る少女が、最近自分に隠れて何やら妙な動きをしていることには、何となく気付いている。
けれどあくまでしらばっくれる気らしい仙は、後ろめたさなど少しも感じていないという素振りで、今も淡桜の紅が付いた笛口を指先で拭っている。
なのでこちらもわざと、それに触れなかった。
「お前がこんなに吹けるとは知らなかったよ」
腕組みのまま無難な言葉を投げると、「飛喃に教えてもらったわ」と返す仙に思いがけぬ先制攻撃を仕掛けられて、ついこちらの方がたじろいでしまう。
予想していなかった名前が彼女の口から出たことにより、渋い顔をする峰寿を、仙はまっすぐ見つめてきた。
「飛喃はとっても綺麗な人。繊細なのに力強くて……優しい人」
何かを慈しむような声を、大きく吹いた夏風が包み込む。それと共に、ふくよかな花と草の薫りが匂い立った。
琥珀色の光芒が辺りに撥開し、それに目を細めた峰寿は……ゆっくりと息を吐き出した。
「あの子は綺麗だよ。俺にとっては……他のどんなものよりも」
「……」
峰寿がこんなにも素直に胸の内を語ると思っていなかったのか、仙は微かな驚きを見せた。彼女は長い睫毛を瞬かせ、それから敢えて視線を前に戻すと、意を決したように訊いてくる。
「彼を……大切に思ってらっしゃるの?」
「本当に大切に思っていたら、こんなところに連れてくるべきじゃなかっただろうな」
つい苦笑が漏れてしまい、何かを誤魔化すように口早に答えたものの、仙は納得していないようだった。
深い色の髪がこの風に大きく翻り――彼女は前を向いたまま、じっと峰寿の答えを待っている。
「飛喃を、愛してらっしゃるんでしょう」
娘盛りの優婉な少女とは思えぬ芯の通った声色で、彼女は峰寿の一番深いところにある思いに、耳を澄ましてくる。
仙はおそらく、峰寿の真意を聞きたいのだ。本当の心の内を、峰寿の口から、しっかりと聞きたいのだ。
そうしてその決断を受け入れる覚悟を、もう決めているのだろう。
「ならば俺も……正直に言おうか」
まさに子供らしい好奇心と、大人の女の洞察力の同居した眼差しを見て、峰寿も観念するしかなかった。浅く長い息を吐くと、峰寿は腕組みのまま咳払いをする。
光明の中で際立つ横顔を向けるだけの彼女に、峰寿なりにゆっくりと、丁寧に、語り掛ける。
「馬鹿馬鹿しいが、閉邸してからは俺もずっと考えていた。あいつにはもしかしたら、他の人生があるんじゃないか……とな。戦いから遠く離れた、穏やかで優しい世界の方が、幸せになれるんじゃないかと」
いざ口に出してしまうと、まさにその通りのような気がしてきて……心臓の奥の方が軋むみたいだ。
けれど彼とは、もう上司でも部下でも、神軍の同僚同士でもない。
あの頃から、状況はあまりにも大きく変わった。それはもしかしたら、以前の関係から、自分達も変わっていかなければならない……そういうことなのかもしれない。
峰寿は露台の手摺りに手を掛けると、そのまま前方に体重を掛け、仙の目の高さに合わせる。
そうすると、彼女の視線からも、苓の連綿たる峰や城下の街並みが、遥か向こうまで見渡せることが分かった。
空の中に立っているような悠然たる心持ちになったこともあり、峰寿は淡い自嘲を浮かべた。
「もしあいつがこの旅の中で、俺よりも大切だと思える何かを見付けたら、俺はそれで構わないと思っている」
……俺とは違う誰かを愛することが。
俺以外を追う夢を見ることがあったのなら、それもいい。
彼が彼らしくいられるように。自分を殺してしまうようなことがないように。
清廉で、静謐で、だけど芯は炎みたいに熱い彼の輝きが――彼の心を照らす、透明に澄んだ火が消えてしまうことだけは、耐えがたいから。
「本気で、そう思ってらっしゃるの?」
仙の静かな声に、峰寿は黙る。口許だけで苦笑うしかなかった。
……そんな問いに、答えられるものかと思う。
情けない真情を、ここですべてぶちまける事ができるのであれば。
それが許されるのであれば……今すぐ彼の元へ走り、彼が嫌がっても、俺は飛喃を自分の物にしている。他のどんな者にも渡しはしない。
もし俺が、それを願ってもいいのであれば――彼を失いたくないに、決まっている。
誰に何を言われたって、世界中が阻んだとしても、あの子を手放せるものかと思う。
俺を見つけると、ほんの少しはにかんで薄い唇を引く癖とか。思慕に濡れた、夜空みたいな瞳で俺を見上げる時の視線とか。
彼の――飛喃のそういうものを、すべて失うことを想像したら、やるせないとか、切ないとか……そんな言葉では言い表せないほどの耐えがたい苦痛で、体中の皮膚が焼け爛れそうだ。
けれど彼の幸せを思う心もまた、嘘偽りのない峰寿の本心なのだ。
「……」
仙は黙り込む峰寿に向き直り、正面から目を合わせてきた。
その視線は、峰寿に根付くもの哀しさの正体を探すようであり、この世のすべての男の持つ憐れさを労うもののようにも思えた。
彼女はもうきっと、知っている。
俺というどうしようもない男の弱さが、飛喃を透過して……初めて形になることを。
「……わたしは子供で、誰か本当に愛するということを、まだよく知りませんが……要約すると」
彼女はそこで、一度小さな唇を結んだ。
きっとそれは、胸に迫り上がってくる様々な感情による微かな震えを、抑える為だったように思う。
「お兄様。それはたぶんすごく……彼を愛しているのだと思うわ」
訴えるような声と共に、深海のような濃藍の瞳が、微かに濡れた。
「やはりそうか」
だから峰寿はわざと、片眉を持ち上げてみせた。屠所の羊が如く本当は憔悴しきっている自分を嗤う峰寿を見て、彼女も困ったように目尻を下げる。
「……お兄様の御心は、もうとっくに決まっていらしたのね」
それに「いや……」と無言のうちに答え、峰寿も遠くに視線を飛ばす。
……一度もぶれることなどなかった。
彼を思わない日は、彼を求めない日は、一日もない。
けれど彼の幸せを願わない時だって、一瞬たりともないから。
凌雲のせいで翠黛していた高峰が、亭然と姿を現す。眩しい陽射しが視界を白く染め、思わず目を細めた。
清冽な風が、峰寿の前髪をも大きく乱してから通り過ぎていく。それは淡く残っていた白霞を押し流し、赫曄たる太陽を露出させる。
気温が、少し上がったみたいだ。
さっそく啼き始めた蝉の声が煩い。
峰寿は微かに笑い、無心に答えを待つ仙の真剣な瞳を受け止めた。
「俺が生涯を掛けて共に生きると決めた相手は……後にも先にも、この世にただ一人だ」
まるで懺悔のようにそう披瀝した峰寿に、声を詰まらせた仙は、かろうじて笑顔のようなものを作り……それでも身を翻し、跫音と共に去っていった。
峰寿はじりじりと焼かれるような陽射しの中、濃くなっていく自分の影を一人見つめた。
……あいつがもし、俺を選ばなかったとしても。
誰にともなくその胸中を独白した峰寿の声など、誰にも届かなかったはずだけれど……涙を呑むような顔をした仙にはやはり、聞こえていたのかもしれない。