夏雲奇峰

□夏雲奇峰
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 香夜が去ったことで、首魁の指示を受けた男らの内二人は、すぐに彼を追って雨の中に走り出た。
 この嵐だ、女を抱えて逃げ切れるはずがない――男らはそう考えたようだが、夜目の利くのに加え、体術の心得もある香夜なら、きっと地下水路まで辿り付いてくれるはずだ。
 そう願う飛喃は、首の皮膚に触れている剣の冷たさに凍り付く体を宥めるように、努めて深くゆったりとした呼吸を繰り返した。
 けれど首魁の男は未だ飛喃を背後から羽交い絞めにしたままで、もう一人も飛喃の前に回り、正面から剣の切っ先を飛喃の鼻先に突き付けてくる。

「女は見当たらねえ……すみません、見逃しました」

 やがて再び乱暴に開け放たれた扉をくぐって帰ってきた男らは、悔しげにそう報告した。

「……二人がかりで追いかけて逃しただと?」

 獣の唸り声のように歪んだ追求に対し、二人は「嵐で何も見えなくて……」と言い訳がましく呻く。

「逃げ場所なんてそうねえだろうが……ちゃんと探したんだろうな」

 首魁の男は飛喃から手を離すと、近くにあった角材を苛立ち紛れに蹴散らした。息を呑む飛喃を、彼はひりつくような怒気を込めて睨め付ける。

「てめえ……なんか知ってるな」

「……」

 唇を引き結ぶ飛喃の胸倉を、一人が掴み上げる。
 その背後では、ずぶ濡れのままの男が再び松明に火を燈しており、おかげで派手に散らかった部屋の様子が浮かび上がった。
「吐かせるか」と目をぎらつかせる男は、剣の刃についた水滴を拭う。もう一人も飛喃ににじり寄り、飛喃は下腹に力を込め、両足の裏で床を踏みしめるようにして立った。
 それでも、首の後ろに冷水を浴びたように、全身が危機感で総毛立つ。
 ……誰でもいい。どんなものでもいい。
 とにかく何かに、祈りたかった。
 これから訪れるどんな恐怖にも、耐えられますように。
 どんな辱めにも、毅然としていられますように……と。

「嬲り殺した後、引ん剝いて正陽門に括りつけておいてやろうぜ」

 そう嘯いて口許を歪めて嗤う男を、首魁が「待て、殺すな」と止める。
 彼は飛喃の正面に回ると、松明に灯る剝き出しの火を無遠慮に近づけてきた。

「……お前、舞戯者だな」

 熱さで顔を背けたけれど、ぐっと前髪を掴まれた手でそちらを向かされ……後の三人も、好奇心を溜めた目で覗き込んでくる。

「しかもこの額の紋――たしか高く売れるやつだな」

「花紋付きは、華柳園の特階娼妓と同値で取り引きされるんだ」

「そうか……なら無駄に傷は付けられねえな」

 目を見合わせる男らの顔に、奇妙な高揚が映った。
 ああ……と絶望に近い感情で、目の前が真っ暗になる。
 ……全身の血が、津波の前の引き潮みたいに、一気に引いていく。
 太い声で言った首魁の男は、そのまま手荒く飛喃の袍の襟を左右に開こうとしてくる。

「っ……!」

「もう分かってんだろ、舞戯者の仕事なんて一つだ」

 慌てて一歩退がり、まだ右手の中にあった玉簪を咄嗟に眼前に構える。そんな飛喃を見て、新たな煙草を咥えた男が、犬でも手懐けようとしているみたいに粘着質な声を出した。

「馬鹿な真似はやめておけ。舞戯団の出なら、賢い生き方は教わって来てるだろ……?」

 男の言う通りだった。
 こうなることは何となく分かっていたのだ……多分、香夜も。
 だからこそあんなにも、飛喃を置いていくことを躊躇ったのだろう。

「ほら、来いよ。戴子のほとんどは俺らが面倒を見てやってんだぜ?」

 急かす声に、苛立ちが混じる。じりじりと灼けるような焦燥で、息ができない。
 ……何も考えられない。
 こういう類いの人間は、神邸にだっていっぱいいた。
 だけど屮暮の時も、迅雷の時も……一度だって自分から明け渡したことはない。この身も心も、髪の毛一筋だって……他人に阿い、暴力に屈したりしたことはなかったつもりだ。
 最後の最後の瞬間まで、抗ってきた。
 ……こういうのは、俺は嫌なんだ。
 ――大嫌いだから。
 だけど、誰が好んでこんな道を選ぶものかと思う。
 玉簪の先を自分の首の方に向けて突いても、こいつらにはさしたる障害ではないのだ。必要のない死骸が一つ増え、少々煩わしい思いをするだけだ。それどころが標的をまた仙に絞り、水路に続く隠し通路を見つけ出すかもしれない。
 ……それならば、俺の答えは決まっている。

「それを渡せ、ほら……早くしろって言ってんだろ」

 男の掠れて尖った声はほとんど聞こえず、最後の仙の叫びが未だ鼓膜に纏わりついていた。
 既に危機を察知している体は小刻みに震えるのに、心は静かで。
 ……そんな声を出さないでくれ……仙。
 飛喃は息を整えながら、悲痛な表情で泣き叫ぶ彼女に対し、心の奥底で語り掛けた。君が悲しむことはない……と。
 君は、苓のものだ。
 こんなところで散らすことのできない、高潔な花だ。

『私は苓と結婚するのよ』

 その心意気と同じだ。
 俺は、俺の心の思う通りにする……いつだって。
 だから心配したり、自分を責めたりすることだけは、しないで欲しい。
 本当のことを言うと……俺は今でも、上手に思いを話せないことがあるよ。
 だからあの時はちゃんと答えられなかったけど……今ならちゃんと、君にも言えると思うから。

『――あなたの心も訊いてみたいわ。飛喃、あなたはどうなの?』

 俺の答えは、いつだって一つだ。
 峰寿を愛してる。
 一瞬も、ぶれることなく。
 死ぬ時は峰寿の隣だと思ってた。
 そうでありたかった……本当は。
 だけど、繋がっていると思えるんだ。彼と同じ思想を持っていれば、今でも……彼との絆を感じられる気がするから。
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