夏雲奇峰
□夏雲奇峰
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辟瑤の扉が、峰寿の手によって荒っぽく閉じられる。
空洞みたいな庫内に響き渡るそれを聞きながら、ずぶ濡れの二人は、どちらからともなく相手の体にしがみついた。
闇の中、手探りでお互いの熱を手繰り寄せ合い――飛喃は目の前の男の荒い息遣いや、そうして高鳴る鼓動、その飢えたみたいな匂いにくらくらと酔った。
そんな飛喃を扉にきつく押し付けると、峰寿は思いの丈をぶつけるみたいに、唇を塞いでくる。
「……、……んうっ……」
性急に割り入ってくる舌先が飛喃の歯列を抉じ開け、口内にまで深く潜る。吐息ごと奪われるみたいだった。
波に攫われる……そんな風に思える口付けに眩暈して、思考は散漫で、もう既に何も考えられない。
皮膚の表面は冷えていても、どちらの粘膜も既に蕩けるほど熱く……お互いそれを貪り合うことにしばらく没頭した。
箍が外れたみたいに剝き出しの熱が暴走し、目の前の男を欲しがることを、もはや己の意志では止められない。
「……、……っ……」
息も絶え絶えに舌を絡ませながら、懸命に手を伸ばし、飛喃は男の胸に縋りつく。
縺れあいながら書架の奥に進むけれど、僅かな移動の時間すら惜しくて、我慢できずに再び口付け合った。峰寿はその度に飛喃を抱き直し、角度を変え、粘膜を擦り合わせるようなキスを繰り返した。
拍子にいくつか本が落ちるけれど、それも気にならず、峰寿の手は飛喃の上衣にかかる。気忙しい手付きで襟元を乱され、そうして彼自身もその手で己のシャツの前を開く。
その間も唇同士を離せなくて、衣服が点々と落ちる中を進む二人は、あるところで足を取られ……縺れ込むようにして重なった。
「はあ、……はあ……っ」
足ががくがくと震えて、もう立ってすらいられなかった。
そんな飛喃を、強い腕が書棚の影に引きずり込み――そうして彼は、そんな飛喃の上に躊躇なく乗り上がってくる。
濡れた肌に床はひんやりと冷たくて、だけど全然寒いとは思わなかった。
むしろ全身から、発火しているみたいだ。
「……峰、寿……」
わななく唇で彼の名を呼ぶと、見下ろしてくる男の顔が切なく歪む。せがむようにうっすら唇を開くと、そんな飛喃の頬を両手で包み、彼は再び深い口付けをくれた。
胸がきゅうっと切なく引き絞られ、じんわりと涙が込み上げる。
お互いに、何か言うべきことが、訊くべきことがあったのかもしれない。けれどここにきてもう、そんな余裕すらなかった。
ただこうして、一つの隙間もないくらいに触れ合っていたかった。
……このまま激しく、抱き潰して欲しかった。
「う、っ、んん……」
彼の欲望を余すところなく注ぎ込まれるような口付けに翻弄され、懸命にそれを受け取りながら、蕩けそうに熱い彼の舌の感触に吸い付く。内側からこの男のものだと刻み付けられるような酩酊感で、既に臍の奥がじくじくと熟れていた。
「……、っ……ああ……」
期待でぶるりと震えたのを見透かしたように、峰寿の唇は飛喃の細い頤や、首筋へと移る。飛喃の火照った頬を彼の湿った髪が掠めたらつい濡れた声が漏れて……勝手に誘うように腰が浮いてしまった。
恥ずかしいのに、それとは裏腹に「峰寿……」と甘えた声が喉奥から漏れる。
それに応え、飛喃の上衣の裾から忙しなく指を差し込みかけた男は――しかしその時ふと手を止めた。
鎖骨のあたりに触れていた指先は、その痛々しい跡からそっと離れていく。
「……いや……待て」
大きく息を吐き、峰寿は引いたその大きな手をぐっと握り込んだ。
「ちょっと落ち着け……こんなところで……」
彼の拳に巻かれた白い包帯が、崩れかけている。
だけど項垂れた峰寿が、まるで自分自身にこそ言い聞かせているかのようなその呻きを聞いたら……。その苦しげな響きだけで、むしろ内腿がざわりとするくらい、欲望が昂ぶってしまった。
「平気か……お前、辛くないのか」
――俺が、嫌じゃないのか。
彼は掬い上げるように飛喃を見つめると、押し潰した声で、そう訊いてくる。
冷静に、と抑えつけられた声とは裏腹に、その目に映る獣じみた逼迫感を目の当たりにしたら、飛喃にはもう、抗う術などなかった。
「やじゃ、ないよ……」
いっこも、嫌じゃない。峰寿がいいよ……。
峰寿に、触ってもらいたい。触ってもらいたかった。
もうずっと長い間……峰寿に抱きしめてもらいたくて、待ってたんだ。
だって震え上がるくらい……彼の温度を忘れかけて空っぽだった場所は、また峰寿の熱に埋めてもらいたくて、潤み、蠢きはじめている。焦れて疼いて、待ち侘びている……。
「峰寿じゃなきゃ……」
……峰寿じゃなきゃ、やだったよ。
ほんとだよ。
浅ましいくらい彼に抱かれたくて、もう恥もかなぐり捨てて叫び出しそうだった。
だけどもしかしたら、彼が気にしているのは、あのことなのかもしれない。
俺が本当に、他の男のものになったと思って……。
ふとそう思い至って上半身を起こした飛喃は、濡れて強張る指先を、己の襟にかける。既にいくつか外れている釦を、震えながら下まで外していくと、露わになっていく肌を目にして、男が息を呑む。
それが分かるから、かあっと頬が痛いくらい熱くなった。
だけどそんな自分を叱咤して、恥ずかしさでもたつく手でそのまま下衣にまで手をかけると、怪訝そうに眉を寄せた峰寿が、「飛喃?」と訊いてくる。
「俺、ほんとに、何もされてない、よ」
そんな彼に、何度でも訴える。
嘘じゃないから。
……証明するから。
「ちゃんと、見せる……から……、だから」
だから……見捨てないで、抱いて欲しい。
そう言い掛けた言葉が、さすがにはしたなすぎて、出てこない。
「いい、そんなことは」
しかし峰寿は飛喃の手を取ると、心底悔やむような声で、「もう、いいんだ……」と呟いた。
彼は飛喃の震える指を両手で包んだまま、額に、頬に、鼻先に――雨みたいな口付けを降らせてくれる。拒まれたわけじゃないと分かったら、体中から力が抜け落ちるみたいな安堵で、ついくしゃりと顔が歪んだ。
「お、俺……、……」
閊えながら訴えかけようとした飛喃を、彼は再び正面から抱き竦めてきた。
「分かってるよ……」
……分かってる。
「怖かったよな」
彼の腕の中に抱き込まれたまま、耳朶に触れるその切ない声を聞いたら……無言で、こくこくと頷くことしかできなかった。
溢れるものが彼の逞しい肩を濡らしたけれど、もう、嗚咽さえ出ない。
「俺も、怖かった……」
……お前が……傷つけられると思うと、俺は……。
呟いた峰寿の声が掠れ、その先は、音にならなかった。
普段ずっしりと重たく響く彼の声とは思えない、その頼りない声を聞いたら……飛喃はもはや、彼にしがみつくことしかできない。
両手で掬い上げられていくみたいだ……。
馬鹿みたいだけど、その時どうしてか、世界そのものに許されたような気になって、今この瞬間の為に、俺は生まれてきたのだとすら思えた。
……この一瞬の為に何度だって傷付いても構わないと、その時の飛喃には、本気で思えたのだ。
どんな言葉でも足りない、とてつもない愛おしさが込み上げて、彼の胸に頬を擦り付け、飛喃は恋い慕う男の匂いを、熱さを、必死に確かめる。
『――お前こそ怪我するなよ。お前に傷一つ付いたら俺が辛いんだと、自覚しといてくれよ』
青嵐でも、神邸でも、繰り返し言われてきたその言葉が、今更飛喃の全身に、満ち潮みたいに急激に迫ってくる。
飛喃はきりのない激情を噛み締め、「峰寿……」と上擦った声で彼を何度も呼んだ。
何度も……何度も。
「俺は、お前が無事なら……それでいいんだ」
首許の痣、鎖骨にも、首の後ろにも……丁寧に唇を落とし、慈しむように触れてくれる男に、飛喃は心の中でだけ訴える。
……違うよ。
俺だって峰寿が嫌じゃないなら、それでいいんだ。
ぜんぶそれで、よかったんだよ。
こうなるともう、居ても立っても居られないくらい彼が欲しくて、恥ずかしいと思う余裕もなかった。目の前の汗ばんだ首筋に額を埋め、鼻先を摺り寄せ、ぎゅうぎゅうとしがみついたまま、飛喃は蚊の鳴くような声で訴えた。
「……抱い、て……」
すると、飛喃を抱き締めていた腕が、僅かに硬直したのが分かる。
だけどもう、退けなかった。
今この体に渦巻くありったけを伝える……この声はきっとその為にあって――この手もまた、この人を抱き締めるためにあるんだ。
そうしてこの体は、彼に愛されるためにあるのだと、本気で思うから。それじゃなきゃ、意味なんてないから……。
「……抱いて……峰寿……」
全身が焼けるみたいだ。どっと汗が噴き出す……燃えるような羞恥心で、悲鳴があがってしまいそうだった。
だけどもう我慢できない。本当はずっと前から、欲しかったから。
この男のすべてを、自分のものにしたかった。
それなのに峰寿は戸惑いがちに、そんな飛喃の肩を持ち、ゆっくりと引き剥がしてくる。
「無理するな。どこか、痛んだり……」
「いや……やだ、やめないで、……峰寿……」
だけど「峰寿……っ」としつこく食い下がると、肩に触れている指にぐっと力が籠もる。
「な、なんでもするから……おねがい……」
どうしても。どうしても、峰寿じゃなきゃだめなんだ。
今突っぱねられたら、壊れてしまう。おかしくなってしまう。
水底に沈められていくみたいな息苦しさに藻掻く飛喃は、峰寿の首に縋り、呼吸の狭間で途切れ途切れに訴える。
「……くるしいよー……」
この沈黙すらもどかしくて、ほとんど生理的な苦しさで、はらはらと涙が零れた。
躊躇いがちだった男も、その身を切るような声を聞いて、改めて飛喃の肩をしっかりと抱き留めてくれた。火照った身を引き寄せられると、彼の引き締まった身体の内部でもどくどくと脈打つ心音が感じられる。
「いいんだな……?」
……本当に、俺でいいんだな。
念を押してくる声も、既に欲情で濡れている。
だけど細かく震えているのも分かって、飛喃は喘ぐような呼吸を繰り返しながら、今一度わななく唇を引き結んだ。
生きている間に再び覜えることを、夢にまで見た男だ。触れ合えるなんて、ましてや愛してもらえるなんて思っていなかったあの男が、今飛喃を狂おしげに抱き締めて、心を明け渡している。
そう思ったら、飽和状態で、目の前の現実を受け止めきれない全身が、わなわなと震えた。
……だけど頷いたら、本当にもう戻れない。
それももう、分かっている。
今度のことよりも、いくらでも辛い未来が待っている。人並みの幸せとは別の道だ。愚かだと嘲笑されることだって、いくらでもあるだろう。
「もう、逃がさないぞ」
……逃がせなくなるぞ。
ほとんど呻きと言っていい峰寿の声が、鼓膜をじんと痺れさせる。
神邸外の広い世界で……新しい誰かと巡り会うことがあっても。
永遠に、この先もずっと、峰寿だけ。
……それは。
それはなんて幸せな――幸せすぎる、夢だろう。
「いいんだな……」
切なく訊きながら、抱き直してくる逞しい腕。だけど彼もまた飛喃に縋り、その愛を乞うているみたいだった。
瞳に沸き上がった水分が、こめかみを熱く濡らしていく。
「……峰寿が、いいよ……」
俺の答えは、いつだって変わらない。
峰寿がいい……峰寿だけでいい。
それこそがずっと、俺の望みそのものだったから。
……だからできることならば溶け合うくらい、峰寿と一つになりたかった。
一番近い場所で、一番脆い場所を触れ合わせて、擦り合わせて、それはすごく怖くて恥ずかしいけれど……そうやって、確かめ合いたかった。