白日の夢
□白日の夢
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飛喃は朝早くから黒邸を訪れていた。背後には、ルルスという小柄な少女を連れている。
神邸には徒闘と呼ばれる制度がある。戦戯内から優秀な者が選抜され、闘戯者の世話係を務めるというものだが、彼女は今その見習い期間で飛喃に付いてくれていた。
彼女を宛がったのは峰寿だったが、徒闘を持つのが初めての飛喃は、正直彼女を持て余していた。まだ大きな仕事を任せる訳にもいかず、ほとんど連れ歩いているだけに過ぎない。
そんなルルスは黒邸が珍しいのか、きょろきょろと廊下を見渡している。蒼邸に比べ閑散としているけれど、森の奥の木陰のような静けさが落ち着くので、飛喃は好きだった。
好奇心いっぱいのルルスの瞳は、飛喃の手にある書類にも及んだ。手にしているのは舞戯団関係の報告書である。これを楽雅鼎佐に届けるのが二人の目的である。
階段を上りきった飛喃は、この邸の主の部屋に辿り着く。扉を叩くが、中からの返事はない。
飛喃はほっそりとした首を傾げ、勝手に開けていいものかと戸惑った。
楽雅鼎佐とはお会いする機会が多いものの、未だろくな会話をした経験がない。気難しい方なので、どう接していいのか分からないというのが本音だった。
思案した飛喃がもう一度戸を叩こうと手を伸ばした時、扉は内側から開かれた。
「……あれ、飛喃?」
現れた人物の姿を見て、飛喃は小さく目を瞠る。
「朝霞さん」
「ごめん、すぐ気がつかなくて……奥にいたからさ」
腰に手をやったままの彼は、そう言ってにっこりと笑った。
背後のルルスは彼に畏まった宣礼をする。それに対しても感じよく笑んだ朝霞は、二人を中に迎え入れてくれた。
飛喃は軽く部屋を見渡したが、楽雅鼎佐の姿はなかった。飛喃の不思議そうな表情に気が付いたのか、朝霞は軽い調子で訊ねてくる。
「楽雅鼎佐は今、舞戯団の用件で出られてるんだ。戻るまで待つか?」
「そうさせてもらいます。楽雅鼎佐ご本人の署名が必要なので……」
遠慮がちな飛喃の言葉に「了解」と短く言った朝霞は、悪戯っぽく口角を上げた。人懐っこい猫のような目が細められる。印象的な濃茶の瞳を見て、飛喃の脳裏に、不意にこの間の闘のことが思い出された。
……怪我はもういいのだろうか。
飛喃が罪悪感に表情を曇らせると、朝霞はこっそりと目配せをし、首を横に振った。謝るな、という意味だと分かった。
神闘で負ったすべての傷に関しては、どちらも一切の責を負う必要がないというのが闘の決まりだ。謝罪はむしろ朝霞に対して非礼にあたるだろうと思った飛喃は、意を決して姿勢を正した。
「先日はありがとうございました、よい闘でした」
そう言って頭を下げた飛喃を見て、朝霞は一瞬目を見開き、次には自分も片手を胸に置いた。
「こちらこそ、ありがとう」
宣礼をした朝霞はちょっと照れ臭そうに笑い、飛喃達に椅子を勧めてくれる。どこまでも気取らない彼の人の良さに、飛喃の顔にも微かな笑みが浮かんだ。
飛喃よりずっと長身で年上な彼だが、何故だか気安く話せてしまいそうな温かい雰囲気がある。そうしてそのくっきりと綺麗な二重を描く瞳は、恐ろしく人をよく見ていた。
自分のように、峰寿一人の事をひたすらに追い掛け気遣う事はきっとそう難しくはない。そうではなく、目の前の青年は、とにかく普段から全方向に気を配っているのだ。
峰寿様に重宝され、あの頑固な楽雅鼎佐の懐刀として信頼される朝霞という人は、そういう闘戯者だ。どうやったって好感しか持てない。相当に根性の捻じ曲がった人間でなければ、彼を嫌う事はできないだろうと飛喃は思った。
「座ってて。何か淹れてくるよ」
そう言った朝霞を見て、飛喃は慌てて立ち上がる。
「いいえ、俺が」
それを見て、今度は飛喃の傍らに立つルルスが甲高い声を上げた。
「私が参ります……お茶でよろしいでしょうか!」
かちこちに緊張した彼女の声は、途中でひっくり返る。
表情を強張らせたルルスを見て、朝霞と飛喃は二人して顔を見合わせた。階下にある給湯場から彼女が無事に帰って来られるかは、甚だ疑問だった。
「ここにあるものでいいよ、水と酒くらいしかないけど。飛喃は?」
「なんでも結構です。楽雅鼎佐の私物のお酒を頂く勇気はないですが」
飛喃の言葉に、朝霞は屈託のない笑い声を上げた。ルルスは依然緊張に体を硬くしながら、部屋の奥、グラスと飲み物の棚の向こうに去っていく。