□笑っていてほしいだけ
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 リーマス、旅行へ行こう、と。部屋に入ってくるなり開口一番そう言った親友に、私は間の抜けた声を出さざるを得なかった。
「いきなりどうしたんだい、シリウス」
 風呂上がりの彼は濡れた髪を乾かす間もなくマガジンラックの中を物色し始める。シリウスが歩いた後には彼の髪から滴り落ちた水滴が点々とその道順を示していた。私は息をついてその水滴を拭き取っていく。廊下まで来たところで、ふと視線を上げると、白い塊がバスルームの方からふよふよと空を流れてきた。
「シリウス、泡で遊んだらちゃんと片付けてくれって言っただろう」
「んー、」
 リビングから返ってくる生返事に、もう一度、今度はより深い溜め息をつく。目の前まで流れてきたそれはシリウスが入浴中に戯れで作っただろう世界地図だった。戯れにしてはやたら精巧なのがなんともシリウスらしい。ひどく手先が器用な男なのだ。
 ぱちんと指を鳴らしてその世界地図を消すと、タオルを手に、シリウスに歩み寄った。背に流した髪の水分は彼が纏うバスローブが吸ってくれるとして、肩の前で揺れている毛束はテーブルの上に無為な水溜まりを作っている。仕方ないなあ、君は。私の声はすっかり呆れ返っている。そのままソファーの背を挟んでシリウスの後ろに立ち、タオルで髪を拭いてやると、シリウスはおとなしくされるがままになった。まるで犬みたいだ、とフローラルな親友の頭を見詰めながら思う。実際に彼が黒犬のアニメーガスであることもそう思う理由だろうが、そればかりではなくて、シリウスは根本的に犬に似ているような気が、する。
「泡の世界地図作ってたら、旅行がしたくなったってところ?」
「当たらずしも遠からずかな、」
「というと?」
「ハリーと何処かに行きたいなと思って」
 へへ、と笑う仕種はやけに子供じみていた。蕩けそうな表情は、学生時代には見せないものだった。学生の頃の彼は、もっと鋭い印象が強かったように思う。もちろん今だって、そういうところはあるのだけれど。
「ハリーはどうやらおじさんとおばさんのうちにいるのが窮屈らしいんだ。一緒に暮らすのはまだ無理だけど、夏休みいっぱいを使って旅行に行くことなら出来るんじゃないかと思ってね」
「素晴らしい計画だ。でも、君、自分の立場を分かっている?」
「私はスナッフルズの姿でいればいい」
「ハリーは? 彼は有名人じゃないか」
「変身術か、ポリジュース薬を飲めば、ばれやしないよ」
「四年生じゃあ、まだ他人に成り代わるなんて高度な変身術、無理だと思うよ」
「じゃあポリジュースだ!」
 嬉々として立ち上がるシリウスを無理矢理もう一度椅子に座らせて、乱暴に頭を拭いた。長い鋼色の髪は学生の頃よりずっと長く伸びいる。ところどころに見える白い筋が、時の流れを感じさせた。彼も私も、なかなかいい年になってしまった。
「危険なことはしないでくれ」
「リーマスがいるから大丈夫だ」
「私も行くのかい……」
「行かないのか?」
「いや、行くよ。君達二人だけじゃ何を仕出かすかわからないからな」
「ふふ、よく分かっているじゃないか」
 にやりと口元を歪めるシリウスの表情はこの上なくあくどい。私は学生の時分から、随分とこの表情に苦労させられてきた。
 私は溜め息を一つつくと、彼の鋼色の髪に目を落とした。あの頃の私達は、このような未来など予想だにしていなかった。学生の彼等が今のこの状況を見たら、何と思うだろうか。絶望する? 或いは、それとも。

「リーマス」

 思考を掻き分けて入ってきたシリウスの声に、私ははたと目をしばたいて彼の後頭部を見る。
「私が、卒業後にジェームズと二人で旅をしたことを覚えているか」
「ああ―――一月もあちこちをほっつき歩いたあれかい」
「何だ、悪意がある言い方だなあ」
 シリウスの声が笑う。もっとも、本当に笑っているのかどうかは怪しいところだ。彼は亡き親友の話をする時、いつもどこか我を見失っているような節がある。いま私に背を向けているこの男が、一体どんな表情を浮かべているのか私は分からない。
「あの時ジェームズは、いつかリリーとの間に子供が出来たら、その子を色んな所に旅行へ連れていきたいと言っていた」
「まだ結婚する前なのに? せっかちだなあ」
「それがあいつだろう。―――でも、あいつの夢を私は潰してしまった、」
 笑みは消えたろう。微動だにしないシリウスの背中が、少し、不気味だった。
「何度も言うが、ジェームズとリリーの死は、君の所為じゃない」
 私の言葉に、シリウスは首を巡らせて、無言でふつと息をついた。真顔、と言うよりも無表情な顔だった。

「君は優しいな。―――悲嘆しているわけじゃあないんだ。……ただ、」
「ただ、なんだい」
「ただ、ふとね、ハリーを旅行に連れて行ってやれなかったジェームズと、ハリーが両親と旅行に行けなかったという事実が哀しくなったんだ」

 それだけ言って、シリウスはすぐに相好を崩す。私は彼の髪を乾かす手を止めた。
「だから、旅行を?」
「私にはそんな資格がないのかもしれないが。少しでもハリーが喜んでくれたら、と思う」
「……あの子はきっと、すごく喜ぶよ」
「ああ」
 笑んだシリウスの顔は、いつもの彼の顔だ。私はそっと安堵をして、再び手を動かしはじめた。














笑っていてほしいだけ
(いまも、むかしも)

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