士道

□ワレテモスヱニ
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嘉永六(一八五三)年の黒船来港以来、日本は動乱の時代を迎えていた。長の太平の世で『お飾り』となっていた腰の二本は再び武士の『命』とされ、町には剣道場が居並んだ。
 北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館、心形刀流の練武館などのように江戸四大道場なるものも現れ、多くの若者達が日々剣の腕を磨き合っていた。
 俺・伊庭八郎や彼、―――後に新選組副長となる土方歳三もその例に漏れず、両の手に竹刀だこなどを作っていた。
 歳さんは元は日野の豪商の出で、彼自身は行商や商家に奉公へ出たりなどする傍ら、剣の稽古を行っていた。しかしひとたび剣を握れば大した腕前で、自己流一辺倒な剣術を使うこともあってか喧嘩では負け無しだという。自己流とはいえ、彼にだって通う道場くらいはあるのだが。―――天然理心流試衛館、江戸の小さな町道場である。しかしここの食客達(理心流の者はもちろん北辰一刀流、神道無念流、挙げ句には種田流槍術の使い手まで)はどうしてどうして猛者揃いで、俺は実家である心形刀流の練武館よりも寧ろ試衛館に入り浸っている時間の方が長かった。
 歳さんと俺はいわゆる悪友というやつで、よく二人で悪所通いやら喧嘩やら、破落戸顔負けのことをやってきた。

 歳さんが珍しく俺の家まで息を切らしながらやってきたのは、一昨昨日の晩のことだった。彼は普段より紅潮した顔で俺に言った。
「やったぞ伊庭、俺たちァ武士になるんだ……ッ!」
「―――はぁ?」
 俺が思わず素っ頓狂な声を上げると、歳さんは焦れったいというように同じ台詞を繰り返す。しかし全く話の意図するところが見えず、俺は頭を抱えて首を捻った。
「歳さん、話がさっぱり見えねぇよ。おいらにも分かるように順を追って説明してくれねぇか」
「分からねぇやつだな。そのままの意味さ」
「分からねぇのはどっちだい。―――マァいいや、とにかく歳さん、中に入んなよ。この寒さでそんなに汗だくで立っていたんじゃあ、いくら丈夫な歳さんだって風邪引いちまうよ」
 俺は自身も寒さに震えながら言う。彼は興奮の所為か寒さなんて平気だったようだけれど、それでは俺の身体が保たない。中に入るように促せば、歳さんは悪いな、などと言いながら素直に従った。本当に珍しいこともあるものだ。

*     *     *

 つい先日のことだ。老中・板倉勝静は『浪士組』を正式に十四代将軍・徳川家茂の上洛警護の任務に就けることを表明した。この『浪士組』は江戸府内の浪人を将軍上洛の警護の名目で集め、京都へ派遣し、無政府状態となっている今日との治安回復に充てよう、というものだった。歳さんが俺の家に駆け込んできたのも此が理由で、彼ら試衛館一門も揃って浪士組に参加することになったらしい。
「信じられねえ……、俺たちが本物の武士になるなんて」
 まるで熱に浮かされたように、歳さんは一言呟いた。嬉しい、とは言わないけれど、興奮の仕方で分かる。歳さんは俺が今まで見たことがないほど浮かれていて、言葉では表せないほど喜んでいる。
 そう言えば歳さんは、子供の頃から武士になることを夢見ていて、自分の家の庭に矢竹を植えたのだと言っていた。武士になったときのために。
「……よかったねぇ歳さん、無駄にならねえじゃないか」
「何が?」
「矢竹、だよ」
 俺の言葉に歳さんは少し驚いたように目を見張る。それからすぐに照れ隠しの笑みを見せて頷いた。
(―――嗚呼、なんて幸せそうに笑うんだろうねェ、この人は)
 俺は熱燗をちびりとやりながら、目の前の幸運な男を見た。
 徳川幕府の長い治世において、人々は身分という鎖でがんじがらめにされていた。武士は武士らしく、農民は農民らしく。生まれた身分というのはその人間の一生を決める。近頃では金で名字を名乗ることを許されたり帯刀を許される者もあったけれど、それはやはりごく一部の人間に限られていた。
 歳さんの家がいくら金持ちであろうと、所詮農民は農民でしかない。まさか戦国時代ではあるまいし、農民が武士になることなど夢のまた夢、寝ていても見ないような夢物語だ。
 それを歳さんは、誰よりよく知っていた。以前に一度だけ、俺と酒を飲んだときにこう呟いたことがある。―――どうして俺は百姓なんかに生まれたんだ、どうして俺が武士じゃねえんだ、俺はどうやったら武士になれるんだ、と。何度も何度も、まるで血を吐くかのように苦しげな顔をして。それでも歳さんは諦めなかった。武士になる夢を、武士になって彼が尊敬する親友であり兄貴分の近藤勇さんを立派な大将にする夢を。
「これは、夢を捨てなかったあんたへのご褒美だねェ」
「ああ。これで勝っちゃんを、大将にしてやれる」
「ははっ、歳さんは気が早ぇや。浪士組に参加するって言っても、そう簡単に頭にはなれないだろ」
 あまりにさらりと言うものだから、俺は茶化すように肩を竦めてみせる。殴られるかと思ったが、歳さんは不機嫌になるどころかニッと不敵な笑みを浮かべて目を細めた。
「なれるさ、してやるんだ。浪士組を、必ず俺のモンにする」
「歳さんならやりかねねぇよな、まったく」
 浪士組の頭領が行きと帰りで違う人間になっている様が、その頭領の隣で誇らしげに微笑う歳さんの顔が、はっきりと想像できてしまうのだから笑える。
「あーあ、歳さんが京都に行ったら寂しくなるねェ」
 殊更明るい声で言いながら盃を呷ると、ぬかせ、と一蹴された。半ば本心なのだけれど。
「吉原の女はおいら一人に夢中さね」
「フン、この道楽息子が。遊んでばっかりいねえでちったぁ道場のことも手伝えよ。親父さんが嘆いてたぜ」
「歳さんにだけにゃ言われたかないねえ、それ」
 眉を顰めて言ったら、頭に拳骨を見舞われた。けっこう痛い。
「ひでぇや。事実なんだから仕方ねえだろぉ!」
 涙目で訴えながら、こうやってじゃれ合うことも当分できなくなるのかと思う。それは、ひどく複雑な心境だった。








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