士道

□風死して実る
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 外は暗い闇だった。ひやりと冷気を湛える窓際に寄って、手袋をはめた手を触れさせると僅かな冷たさが伝わってきた。それを受け止めて、全ての音を消すように、吐息を凍らせる。けれどすぐに溶解せねばならなくなって、何だか情けなさが込み上げてくる。
「大鳥です」
 ノックの音と共にそんな声がして、そちらを振り返る。装飾の少ないドアが音もなく開いて、図体ばかり立派な男が入ってくる。男は軍人でもないのに敬礼をして、ひどく緊張したように「このたびは」と大声を上げた。
「条約締結へのご尽力、まことにご苦労様でした」
「わざわざすまねぇなあ。何、大したことじゃねえ」
 肩を竦めてみせるとそうでしょうか、と首を傾げ、男―――大鳥圭介は素直に賞賛の言葉を口にする。この男は昔から何処か生真面目なところがあり、嘘というものをつけぬ質らしい。
「俺からも君に伝えようと思っていたことがあったんだ」
「はあ」
「再三上の人間を突いてやっていたんだがね、先達て漸く許可が出たのだよ」
 祝杯だ、と洋酒(ワイン)を差し出してやると、大鳥は未だ話の概要を掴めていない顔でいる。相変わらず要領の悪い男だな、と笑んだ。
「五稜郭において戦死した者たちを、地元の柳川熊吉という男が弔ってくれていたろう」
「ええ。―――あの、それじゃあ」
「あぁ。彼らの―――望まぬも賊軍の汚名を負った我が同志たちの、祭祀が認められたんだ。正式に、な」
 洋酒を受け取った大鳥は静かに瞠目して、小さな嘆息を漏らした。
「そうですか……漸く、ようやく―――彼らを、弔ってやれるんですね」
「そう、やっと、な」
 カチリと合わせた洋盃の縁が、ふと激しい既視感を呼び起こした。―――それは、忘れもしないあの日。己が誠の武士たることを心より望み、誰よりも武士らしく生きた男と、最後に酒を酌み交わした晩のこと。
「土方君には」
 不意に大鳥の口から溢れた名が、丁度今脳裏を過ぎった男のものであったから、榎本は少しだけ驚いたように彼の顔を見た。ほんの五、六年の内に、この大鳥は随分と老け込んだ気がする。
「今更、何をしにきたと責められそうな気がします」
「口が悪いからなあ、彼は」
「ええ。それから……春日君などにはくどくどと言われそうです。もちろん、伊庭君にも」
「あの男は人畜無害という風に笑っていながら確実に痛いところを突いてくる」
 最後まで抗戦を主張した男達の姿が、眼裏にはまだ残っている。義を貫き通した彼らは、しかし降伏して生きることを道として選んだ榎本らを、決して責めはしなかった。
「―――榎本さん。石碑を建てるのでしょう」
「ああ。そのつもりだが」
「……碑の名がまだ決まっていないのでしたら、ぜひ付けていただきたいものがあります」
 おもむろに口を開いた大鳥に、榎本は洋盃を机に置いて先を促した。
「義に殉じた武人の血は、碧色になると云います。だから、―――碧血碑、と」
「碧血碑、」
 ええ。頷いた大鳥の至極真摯な眼差しは揺らぐことがなかった。
「それは……彼らにはこれ以上ないほど相応しい名だ」
 微笑んでやると、大鳥は微かに泣き出しそうに顔を歪めて頷いてみせた。


―――あんたは自分の義を全うすればいい
―――くれぐれも私たちを裏切るようなことはなさらないでいただきたい

 今でも彼らの言葉が、離れることはない。
 政府に出頭し、敵だった者たちと肩を並べている今の自分が、果たして義を果たせているのだろうかと自問することこそ彼らは望んでいたのだとさえ、感じる。―――だが、恐らくそうではないのだ。
 彼らは榎本たちに、新しい時代を生きていくことを決意した男たちに、自らの義を託したからこそ言葉は自然、きつくもなった。彼らは己の命を、命より大切な想いを、彼らの死を、全て委ねてくれたのだ。
「悔いを抱いて生きることは、悔いを晴らして死ぬことよりずっと、楽に決まってらァ」
 ならば、俺は碧血碑にもう一度誓おう。
 己の義を、最期まで貫き通すと。

―――明治辰巳 実に此事有り
―――石を山上に立てて以て厥の志を表す

















―――了。

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