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□信服のすすめ
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「あのような者を手元に置かれて良いのでしょうか」
 海野が出し抜けに呟いた言葉に、信繁はのんびりと生返事をした。野山は青く繁渡り、清々しい風の吹く昼下がりである。
「若。お聞き下さりませ」
 わずかに厳しい声音。信繁は息をついて、己に忠義を尽くす従者の顔を見た。海野は不機嫌というよりも、どこか不安げな色を浮かべている。
「なんだ」
「あの筧という男……明らかに人を信頼せぬ瞳をしておりました。人好きのする様を装っておりましたが、如何にも胡散臭いではございませぬか」
「ふふ、珍しいな。お前が他人の悪口を論うとは」
 いきり立つ海野を宥めるようにわざとめかして微笑い、信繁は腰を浮かせた従者を座り直させた。海野は不服そうに眉根を寄せたが、素直にそれに従う。敬愛する主君の言葉には逆らえぬ男である。
「私は頭の切れる男だと思ったがなあ」
「そうとて。それが仇になることもございましょう」
「余程気に食わぬと見える。申してみよ」
「……気に食わぬのではございませぬ。ただ、私は、面妖に思えてならぬのでございます」
「……面妖、とな?」
 海野の言葉が意外であったと見えて、信繁ははて、と首を傾げて見せる。海野は小さく首肯して続けた。
「私も、筧殿は頭の切れる男であろうとお見受けしました。そうであれば尚更、何故あのような目を? まるで人を信じられず、拗ね怯える子供の如き瞳ではございませぬか。彼ならば世の道理も生きる術も心得ておりましょう。あのように鬱屈する故が私には図りかねまする」
 一息に捲し立てた海野の顔を、信繁はしげしげと眺めた。元来正直な青年の言葉には瑣末な修辞さえ紛れてはいない。すべて心底よりの所感であり、疑問なのである。海野は賢く、聡明な男であったが、こういう所があった。如何にも生きるのに不器用な実直さである。先達て士官を願い出てきた件の男も、この忠臣に通ずる所があるように見えた。
「六、随分と筧を買っておるな」
「……は、」
 信繁が冗談めかして言ったのに、海野は怪訝な顔をする。
「私も六も、これまで恵まれた時を得てきた。それゆえ、お前はそのように不思議がるのだろう。しかし、世には辛く苦しい過去を持つ者など大勢いるのだ。我々は彼等を理解せねばなるまいし、彼等から学ばねばなるまい」
「筧殿が不遇なる道を歩んできたためにあのようになった、ということでございましょうか」
「当人から聞いた訳ではないが、な。蜂須賀の家中では随分と嫉みを買ったらしい」
 そう言っていたのは、筧と旧くからの友人という由利鎌之助である。鎌之助は、信繁に面白い男が居ると筧を推挙した張本人だ。筧ほどの男を、才を殺して燻らせておくのは勿体ないと言う。
「嫉み……、」
 信繁の言葉を反芻した海野は、嫌悪の色を隠さない。その反応が信繁には実に嬉しかった。
「六。筧に家中のことを教えてやって欲しい。あの男を知るには、腹を割って話すが最たる近道だろう」
「御意に、」
 深々と平伏した海野は、主命を遂げんとすぐに立ち上がった。それを呼び止め、信繁は穏やかに笑んでやる。
「心配をかけて悪いな。お前が居てくれるから、私は此度のように気楽にいられる」
「そのような……、勿体なきお言葉にございます」
 慌てて頭を振った海野もまた、穏やかに微笑んだ。







「すまぬな、悪気の無い言葉ゆえ許してやってほしい」
 海野の足音が聞こえぬまで遠ざかったのを確認した信繁は、閉め切られた襖に言った。声をかけられた無機物は、恥ずかしげにガタリと鳴いて細目に開く。
 顔を出した件の男―――筧十蔵は、何やらバツが悪そうに座していた。海野と信繁のやりとりは、すべて彼に筒抜けであった。
「いいえ、滅相もなく」
「忠義に篤い男なのだ。不器用な男ゆえ、誤解されることも多いが」
「いいえ、さすが真田様、よき家臣をお持ちだと感服していた所でございます」
 微笑含みの筧の言葉に、信繁は苦笑してみせる。それは、この男が困った時に見せる表情である。
「含みのある言い方だな」
「そのようなことは」
 笑って頭を振る筧の、本心は信繁にも未だ見えない。それもまた海野の心配の種であろう。
「真田は小さい。それゆえ、どうにかして血を残してゆかねばならぬ、……」
 そこまで言って、信繁ははたと筧の瞳を見据えた。
「そなたも、私に力を貸してくれるだろうか」
「私に出来ることがあらば、何なりと。必要とされているならば、の話ですがねィ」
 嘲笑。筧は微かに顔を歪める。その表情は、苦しげにさえ見えた。
「海野殿を始めとした素晴らしい御家来衆があるならば、私など無用の長物にございましょうか」
「筧、」
「新参者を信用出来ぬとの言い分もよく存じております。……どうぞ、ご決断を誤られませぬよう」
「十蔵」
 筧の言葉に差し挟まれた声は、厳しいものであった。筧がゆるりと見れば、信繁は悲しげに眉根を寄せている。
「たしかに私はそなたのことをよく知らぬ。されどそなたを推挙した鎌之助のことはよく知っているし、信じておる。それゆえ、そなたのことも信じよう」
「恐れながら、それは人が良すぎるのではございませぬか」
「そうかもしれんな。よく、六に叱られる」
 愚かしい、と言わんばかりに顔をしかめた筧の言葉にはにかむように息をついて、信繁は肩を竦めてみせる。
「されど、分からぬことがあるからこそ、人は信ずるものだろう。互いにすべてを知り尽くしていたのではつまらぬではないか」
「……は、」
 筧は驚いたように言葉を失った。これほどまでに真っ直ぐと相手の瞳を、相手自身を、見据える男に出会ったのは初めてであった。いっそ無防備すぎるほどの信頼を寄せられては、裏切る者も裏切れず、不忠者は忠を致さねばなるまい。
 これこそ、あのどうしようもない無法者であった由利鎌之助が、信繁の臣下に甘んじている理由であろうと、筧は瞑目する。
「敵いませぬなァ、貴方様には」
 そう言って肩を竦めた筧に、信繁はにこりと笑んで、
「私が言うのも何だが、我が元に集う者たちはそれぞれに秀でたものを持つ男ばかりだ。それゆえ、十蔵も思うがまま働いてほしい」
「……、」
 深々と叩頭した筧は黙する。それに歩み寄って、信繁は真摯な顔をつくった。
「己を軽んじてはならぬ。誇りを持って生きよ」
「誇りを、」
「ああ。これが最初の『命』だ」
 そういって再び相好を崩した信繁を、筧はぼんやり眺めて胸中でその言葉を反芻する。

 誇りを持って生きよ。
 己を軽んじては、ならぬ。

 それは己を導かんとする道標のようにさえ、筧には思えた。
「……御意に、」









信服のすすめ
(その瞬間、男は既に臣であった)











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