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□四面楚歌を愛おしむ
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「ねえ、リョウ。……りょういち、」
 闇の中でしめやかに囁いた青年に、綾一はゆるく目を開けて生返事を返した。僅か首を傾けると、暗さに慣れていない視界にはぼうと白くサイプリスの存在だけが映る。彼の吐息は冷ややかだった。
「君は望まないのだね」
「何を」
「私のような力を、さ」
 目が慣れてきた。
 綾一の方に身体を向けたサイプリスは胸の辺りまで毛布を剥いでおり、白い肩が剥き出しになっている。彼は華奢ではあるけれど、無論女のそれのようなしなやかさはない。彼がかつて勝ち得た大佐と云う称号は、彼の家柄の良さばかりの賜ではないということだろう。
 綾一はその白さを見つめて、微かに口角を持ち上げた。
「望んでほしいのか?」
「いいや、そうではないよ。ただ君は、何も欲しないから」
「力というのは不老不死になることのこと?」
「それもあるし、人間を超えた怪力や駿足だとか、容姿を自在に変えられることだとか、」
「そんなことまで出来るようになっていたのか」
 綾一はわざとめかして驚いてみせる。真面目な話だよ、とサイプリスが顔をしかめた。
「君が仲間を必要としているのなら、俺は喜んでその願いを聞き入れよう」
「いいや、駄目だ……駄目なんだ、私が求めるばかりでは、」
 サイプリスは困惑したように頭を振る。衣擦れの音が闇に響いた。
「恐れているんだな……君は、」
「嗚呼……」
 おそろしいよ、と。サイプリスは瞑目した。閉ざした瞼が微か震えている。
 己れが「人間とは異なる生き物」になってしまったと知ったサイプリスは、ひどく悲しみ、恐怖していた。彼は何よりも不死が恐ろしいと言う。
「俺が望めばいいのか?」
「……君は望んではいないだろう」
「望むとも。それによって君が救われるならば、」
 何なりと。口をつく言葉は大した思考を待たずに溢れたものではあったけれど、心にもないことを言っているわけではない。
 サイプリスは無言で息をつくと、枕に顔を埋めた。艶やかな金糸が白い枕の上に流れる。
「サイプリス、」
 綾一は肘を立てて身を起こした。サイプリスはじっと微動だにしない。
「……君は優しすぎるんだ」
 くぐもった声。綾一は無言のまま続く言葉を待つ。
「私に、……私なんかに、いつも優しさをくれるから、甘えてしまう」
「甘えればいいじゃないか。何を躊躇う必要がある」
「私だけではなく、君も辛い思いをすることになるだろう」
 そんなのは嫌だ、と少し拗ねた声で言う。まるで子どものようだ、と綾一はサイプリスを眺めた。この美しい友人は人に非ざるモノと成った今、むしろ生前より儚いモノに成ったように思えた。不死がどうと言うのではない。「サイプリス」という人間、その存在そのものが壊れて―――消えてしまいそうな危うさを、湛えているのだ。
「君がそんな身体になってしまったことには、俺にも原因がある」
「リョウは何も悪くない!」
 サイプリスは慌てたようにぱっと半身を起こした。綾一は僅か顔を綻ばせて彼に向き直る。
「君にそう言ってもらえると、救われる。―――それでも、君の為に俺が出来ることは、何でもやりたいんだ」
 サイプリスが己れの宿命を呪ったように、綾一は幾度となく己れを呪ったのだ。あの日、サイプリスを置いて館を離れた自分を。サイプリスが何と言おうと、彼を異形のモノに貶めてしまった一因は、綾一にある。
 サイプリスは泣きそうな顔をしていた。そんな表情までも、絵画になり得る美しさを湛えている。
「君に辛い思いをさせたくないというのは言い訳に過ぎないな……」
 一呼吸置いた後で、サイプリスが自嘲ともつかない声を上げた。綾一は彼の柔らかな髪を撫でつけながら、言葉の続きを促す。
「私は、憎みたいんだ……この世界を。―――私を得体の知れない病に襲わせ、葬り去り、それにもかかわらず死ぬことさえも赦さない、神を」
 悲痛な声だ、と思った。ほんの小さな、独り言程の声音であるにも関わらず、綾一にはそれが絶叫にも等しい痛切さを孕んでいるようにさえ聞こえたのだ。
「………だが、君がいるだろう。―――この世界は、君がいる世界なんだ。君が私に優しさをくれた分だけ、私はこの世界が愛しくなる。憎むことさえ、私には赦されない」
「それじゃあ俺が君の前から姿を消せば、全て丸くおさまるのか」
「馬鹿なことを言わないでくれ。それこそ、君も私も望まないことじゃないか」
 サイプリスは僅か笑みを見せた。そのことに安堵を覚えた反面、綾一は困惑する。それじゃあ一体俺はどうしたらいいのか、と。
 綾一の困惑に気付いたように、サイプリスはふつと表情を弛めてみせた。
「変なことを言い出してすまなかったね。……忘れてくれ、」
 その穏やかな口調は、先程までとは全くの別人のようであった。サイプリスの中では、何らかの答えが出たのかもしれない。
「…………俺は、君がこの世界を愛し続けてほしいと思う」
 この世界は、死ぬことを赦さないのではない。サイプリスに、生きることを赦したのだ。
 一度は失った親友と、再びこうして並んでいられることへの歓喜。そも、サイプリスが彼の「病」に冒されなければ、綾一は彼と出会うことさえなかっただろう。―――それを思えばあながち悪いことばかりでは無いように見えるのは、楽観視しすぎているのだろうか?

 埋まることのない認識の相違が、いつか消えて無くなれば良いと、思うのだ。

 ―――それにしても、自分にしろサイプリスにしろ、互いに自らの手で進路も退路も断っているようだ、と綾一はゆるりと瞑目した。













四面楚歌を愛しむ
(君は決して、俺に近付く最後の一歩を踏み出そうとはしない)








fin.

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