□何も知らない彼女は哀れで、そして幸せだ
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「どういう、ことなの!」

 薄汚れた空気を切り裂くような金切り声が、密集した家々の壁に反響した。
 怒りの矛先を向けられた黒衣の男は僅かに驚いたように濁ったその瞳を見開いた。ヒステリックに叫んだ彼女と顔を合わせたのは、実に数年ぶりのことだ。そんな人間に出し抜けに怒鳴られたのでは、驚くのも無理からぬことだろう。
「あなたは死んだのだと思っていたのに……、」
「……」
「そうでなくちゃ、どうして、」
 ペチュニアは10cm近くもあるピンヒールの足を器用に運んで、セブルスへ素早く歩み寄る。伸ばした細い腕は勢いのままに彼の黒いローブを引き掴んだ。
「どうして、あんな男にリリーを譲ったりしたの!」
「……君の口からそんな台詞を聞くとは驚きだ」
 セブルスは表情と声音に皮肉を滲ませて顔を歪める。どうやら嘲笑したらしいが、ぎこちないその動きは酷く不自然だった。
「もちろんあなたなんか嫌いよ、リリーに相応しいと思ったこともないわ!」
 だけどあの男に比べたら遥かにマシ、と言い放ち、ペチュニアは唇を噛んだ。今しがたの言葉を屈辱と捉えているのかもしれない。
「あんな男……どんなに良いところの生まれで優秀か知らないけど、結局リリーを守ってくれなかった、あんな男なんて……っ」
 セブルスに縋り付くように俯いた彼女は、泣いているようだった。骨と皮ばかりのような華奢な肩が震えている。
 生来痩せぎすなペチュニアの顔は病的なほど窶れていた。昔から姉の背中ばかり追って生きてきた妹の前に提示された現実は、―――素直に成り切れず、蟠りを抱えたまま無理矢理にピリオドを打たれた姉妹の関係は、彼女をどれほど追い詰めたことだろう。
 ペチュニアがセブルスを嫌っているようにセブルスもまた彼女のことをついぞ好ましく思ったことはなかったが、この時ばかりは一片の憐憫さえ浮かんだ。無論それは同一の女性の死を悼む同志としての感情である。
「あたしはリリーが嫌いだった。ほんとうよ」
「……」
「でも、あなたは違うでしょう。あの日公園で話し掛けてきたあの時から、あなたにはリリーしか見えていなかった―――いまさら、」
 ペチュニアの言葉は喉の奥から搾り出したように、皺くちゃだった。
「いまさら心が離れるなんて、有り得ないのに」
 特別な能力を持たない者は、いつだって変化を嫌う。ペチュニアは昔も今も自らが手にしている日常を手放してしまうことを恐れているにちがいなかった。
 彼女はセブルスが昔と変わらずリリーを愛し、リリーの傍らに在れば、姉は死ぬことがなかったと思い込んでいるらしい。彼女はセブルスの立場も、自分の姉がどれほど優秀で勇敢な男を夫に迎えたのかすら知らないのだ。
「無論心は永久に、リリーのものだ」
 低く呟いたセブルスの言葉に、ペチュニアはびくりと身体を震わせて顔を上げる。
「だが私には、救えなかった……、」
 ペチュニアの瞳に、新たな涙があふれる。
 セブルスはその姿をただ黙って見下ろしていた。幾多の言葉を以てしても彼女のその涙を止めることはできないだろうし、またセブルス自身に止めようという気もない。
「君にはリリーの死に報いるためにやることがあるはずだ」
 生き残ったリリーの息子は、ダンブルドアの手によって他ならぬこのペチュニアに託された。魔法能力を持ったままマグルの世界に生きることは難しい。己が特別な力を持っているという自覚がない限り、その子供はえもいわれぬ不気味を自身のうちに抱きながら生きなくてはならない―――かつてのリリーのように。そうならないようにペチュニアがハリーをフォローをするとはセブルスには思えないが、いまは、そうする他ないことも知っていた。
「早く立ち去れ―――もう、スピナーズ・エンド(此処)には来るな」
 セブルスの言葉に小さく頷いたペチュニアは、おもむろに踵を返す。骨張ったその背は、リリーとは似ても似つかないはずなのに、どうしてかセブルスに、彼女を想起させた。






何も知らない彼女は哀れで、そして幸せだ
(あの方の恐ろしさを、この絶望を)








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