□アガペー
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 恩師の記憶を見たことがある。

 その中には、僕の母さんが溢れていた。母さんが笑って隣にいる想い出が、どれほど先生にとってしあわせで、たいせつなものであるかは火を見るよりも明らかだった。そういう記憶はもれなく、背景がきらきらとしている。母さんも、そして先生も、このうえなくきらきらしていた。

 一度、僕は先生に尋ねたことがある。先生がみぞの鏡を覗いたら、何がみえるでしょうか、と。
 絵の中の―――以前より少しだけ優しくなった―――先生は、くだらないと言うように鼻を鳴らして皮肉を返したけれど、本当のことを言えば、僕は答えを知っているのである。敢えて聞いたのはいつも表情の変わらない彼を困らせて見たいと悪戯心が動いたからに相違ない。そしてまるで鉄仮面を被っているような先生が、生涯をかけて貫いた愛について、直接語ってもらいたいという淡い期待があったためだ。

 僕が先生にした質問の答えを知ったのは、先生の記憶を見た正しくその時である。たくさんの隠された真実の中に紛れて、その記憶はひっそりと息づいていた。





 薄暗い部屋の中に置かれたみぞの鏡。先生は衣擦れの音さえ落とさぬようにそろりと鏡の前に歩み寄っていた。僅か膨らんだマントが重力に従って静かになったとき、鏡の中の先生の隣には、ひとりの女性が立っていた。先生が、掠れて消え入りそうな声でその名を呼ぶと、女性は、ゆっくりと微笑んで鏡の中で先生の手を握って見せた。それ以上は動かずに先生の顔を見つめる女性は―――母さんは、小さく唇を動かしている。
 せ、ぶ
 母さんはかつて呼んでいた名で先生を呼んだに違いない。僕にはその声を聴くことは叶わなかったが、先生にはきっと届いたことだろう。
 先生は力無く膝を折って、鏡の前に跪く。少し長めの黒髪がその顔を覆ったので、僕には先生の表情は判らないが、そのため少しだけ、ほっとした。

 何でも自分の望んでいる姿が映るというみぞの鏡。そんな鏡の中でさえ、先生は決して多くを望まない。ただ、一生をかけて愛した人が隣で笑っていてくれるだけでいいだなんて、そんな切ない話があるものか、と思う。だからこそ僕は―――僕という人間が、先生の不幸の上にこそ成り立っているにもかかわらず―――この人の失われた幸福を願ってしまうのだ。

 言葉にせずとも伝わってくる。先生の中には、確かに尊い愛が、根を張っていた。











(何も望まない。ただ想い続けてきたのは、)

 ガ
  ペ
   ー

(僕が知る限り最も勇敢な魔法使いに捧げます。)








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