□悪巫山戯
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注*海野←筧♀




 静まり返った屋敷の中、筧は不意に火繩を磨く手を止めて、顔を上げた。
 皐月に入り、日に日に空気は温かさを孕み始めている。恰幅が良く見える綿入れを着なくとも済むようになってからというもの、筧は毎晩海野の部屋を訪っていた。目的という目的などないため海野には大層邪険に扱われているが、決して懲りることはない。
 今宵も昨晩までと同様に、のらりくらりと海野の小言を躱して居座ることに成功したのだった。―――しかし、どうにも気落ちがして致し方ない。挙げ句は平生顧みることさえしない海野の小言までも胸中を攻撃し始めたのだから困ったものである。筧は深く重い息をついて、愛銃を畳の上に寝かせた。
「あたしのような女が、貴方様に相応しくないことくらい、分かってるんでさァ」
 文机に向かう海野の背中にそんな呟きを投げかける。
「こんなふうに汚れてしまう前に、貴方様にお会いしとうございやした」
「お前はいつもそうだな。―――己れを堕として生きている」
 海野の背に投げかけてはいたものの、もとより、独り言のつもりであった。それゆえ、海野が読んでいた書を閉じて振り返ると、筧は驚きにその肩を震わせる。
「自分は駄目だ、駄目だと言ってちっとも真(まこと)を見ようとしない」
 海野の声音は、何故かひどく不機嫌そうである。その理由が分からないまま、その言葉はひどく筧の癇に障った。常ならばこの男のぶっきらぼうな態度が気になることなどない。
「真を見たら、何か良いことがあるってんですか?」
 僅か棘を含んだ筧の言葉に、海野は彼女に真正面から向き直った。
「胸張って生きたって、どうせ貴方はあたしを選んでくれないでしょう―――そんなの、見たくないんでさァ」
 海野は筧を同じ主君に仕える同志としか見ていないだろう。よしんばそうではないとしても、決して異性として扱うことはないし、筧の好意を受け取ることもない。筧もそれを心得ているからこそ、己の抱く彼への好意を茶化し、笑いの種に換えてきた。
 だのに、真を見ろとは、あまりに非情な言葉である。
「なんにも望みやしやせん。貴方様を、お守りすることだけが……あたしの生き甲斐なんでさァ」
 無理矢理頬を持ち上げた筧の表情は引き攣れていた。
 海野はその貌にいつになく真剣な眼差しを向ける。
「お前はそれで良いのか……そのように、男の如く振る舞って―――それほど器量が良いと言うのに、」
 言い差し、海野は怪訝そうに眉根を寄せる。
「なんだ、そのように間抜けな顔をして」
 自分を見つめる顔が、豆鉄砲を喰らった鳩のようになっていることに気が付いたのである。その顔は、柄にもなく頬まで色付いている。加えて目は見開き口も半開きになっていれば、確かに間抜け面だ。
「海野ちゃん、今……」
「あ?」
「あたしのこと、綺麗だと言ってくださったんですかィ?」
 訊きながら、筧は、自分が瞬きをするたび、周囲に火花が散っているのではないかと思った。それほど視界は明るく、目の前の男は輝いて見えた。
「は……っ、あ、いや、」
 筧の問いを解すなり、海野の頬がみるみる紅潮してゆく。筧は思わず両手で顔を覆った。自分でも驚くことに、今の一瞬で汗が噴き出したのである。
「ふ…うぅ、」
「か、筧……っ?」
 泣いているとでも思ったのか、上擦った声が愛おしい。
「うれしい、こんなに嬉しいことはありやせん」
「馬鹿者、今はそういう話をしているのではなくてだな……」
 筧の言葉を受けて目を見張った海野は、すぐに顔を背けて溜め息を漏らす。
「いや、そういう話だな。―――私は時折恐ろしくなる」
 嗚呼、今宵は思いもよらぬことばかりだ!
 これまで聞いたことがないほど殊勝な言葉を吐く海野を、筧は興奮した胸中を以て眺めた。完全に、浮かれきっている。こうなってしまっては、己れではどうともしようがない。
 そうした筧の胸中など知る由もなく、続く海野の言葉はひたすらに生真面目である。
「お前の、女としての幸せを私が潰してしまっているのではないかと……それを分かっていながら、私はこの状況に甘えているのではないかと。それが、恐ろしい」
 海野は眉間に深い皺を刻んでいる。この溝は最早彼の顔を語る上では欠かすことの出来ぬ部品である。筧はこの男の、こうした険しい表情が嫌いではない。
「……貴方は、存外臆病なんですねィ」
 筧はそっと海野の頬に触れた。彼が嫌がらないことが分かると、そのまま側近くに擦り寄る。互いの息が掛かるような至近距離でも、海野は身じろぎ一つしない。
「そうとも、私は弱い男だ。軽蔑するが良い」
「珍しいこともあるもんですねィ。いつも自信に溢れた貴方様の口から、そのような言葉が聞けるとは」
「ふ……、お前の自虐癖が移ったのだ」
 自嘲を浮かべた海野に、合わせて笑んで見せる。
 筧は胡座をかいた海野の足の間に座り直した。諌める低い声音を無視して、身体を些か薄い胸にもたせ掛けると、海野はそれ以上何も言わなかった。諦めたようである。
「ね、女の幸せって何ですかねィ? 嫁いで子を産み母となること?」
 答える声はない。筧もまた、答えを求めて問うたのではなかった。
 海野は長く伸ばした髪を、髷には結わずに肩口で緩く括っている。胸元に流れたその毛先を指に絡めて遊びながら、筧は眩しげに双眸を細めた。
「好いたお方のお側にいて、お役に立てるんでさァ……これ以上の幸せなんか、ないさねィ」
 見上げたところで、海野は筧に一瞥もくれない。何も聞こえなかったとでもいうように瞑目していた。そしてその両手もまた、筧の身体の支えとはなろうとしない。
 相変わらずつれない御方だ、
 筧は海野に気付かれぬようにこっそり息をついて、目を閉じた。






共犯にはなってくれない
貴方

(受容も、拒絶さえもしてくれない薄情者)


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