□70000打御礼
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 幼子の啜り泣く声が響いている。男は極力音を立てぬように室の中に身を滑らせて、小さく囁いた。
「さあ大八様。おのこがそのように泣くものではありませぬぞ」
 幼子はしゃくりあげて何とか言葉を紡ごうとする。
「でも、おばけが」
「大八様に良いことをお教えしましょう」
 黒いふたつのつぶらな瞳が救いを求めるように真っ直ぐに見つめてくる。男は幼子を膝の上に向かい合うように座らせた。
「真に恐れるべきは目に見えぬモノであり、姿が明らかなモノはたとえどれほど恐ろしげななりをしていても、恐るるに足らないものでございます」
 男の言葉に応えるいとけない瞳には懐疑と期待の色が混在している。
「なれど、私は常人には見えぬものが見えます。必ずや大八様を怖がらせるモノを成敗いたしましょうぞ」
 男はふと息をついて頬を緩めた。普段ならばしないような表情を見せた顔は、不器用に引き攣っている。しかしそのようなぎこちない笑みに対しても、幼子は輝かんばかりの表情を見せる。



或る男の勤仕



 敗戦を前に、信繁の子女達の城落ちが評議された。満場一致の評定場から皆が引き上げる中、一向に立ち上がろうとしない望月の姿に、海野は足を止めた。
「私が代わってもよいのだぞ」
 無論、望月が齢わずか四つである大八の城落ちに異を唱えるはずがない。ただし、提起された大八の供連れの役は、決して引き受けようとはしなかった。ただ説得だけをすると言って聞かなかった。
 そのように強硬な姿勢をとりながら、望月の面持ちはちっとも晴れない。沈思するその横顔は、未だ葛藤を捨てきれていないようだ。
「……私が行かねば、納得なされまい」
 兄君や姉姫たちの幼少時に較べ、大八は涙の多い子供であった。しかしながらいつかの自分の言葉を胸に留め、(本当に恐怖心がないか否かは別にしても)己にそう信じ込ませようとしているその健気な態度が、望月には愛しく思えてならない。このどのようにも形容しがたいある意味衝動的な感情を望月は持て余している。大八の傅役になった折から、ずっと。







 大八に城を出るよう話をしに行った望月が、 背の真ん中まであった長髪をばっさりと切り下ろした姿で現れたことに、海野は目を見張った。
「何だお前、そのざんばらは」
 以前の半分程しか長さがなくなった上に、その毛先はいびつに歪んでおり、とても褒められた姿ではない。のみならず、その白銀が縁取る顔は憔悴しきっている。ただならぬ様子に、普段は身なりに煩い海野もそれ以上の言及はせずに息をついた。
「ついて来い」
 素直に頷いた望月は、俯いたまま海野の背に従う。海野はもうひとつ、溜め息を漏らした。

 大八との別れの顛末をぽつぽつ語る望月を縁側に座らせて、海野は総髪をととのえてやる。どうやら彼の長かった髪は、自ら切り落とし呪符とともに大八の身を護るために託したようだ。
 他への執着がほとんどない幼なじみのそんな行動に、海野は少なからず驚いた。
「時折、なにゆえ殿は私に大八様の傅役をお任せくださったのだろうと思っていた」
「不服か?」
「いや……。だがしかし、幼子と云うものは、側にいる人間の気質如何によってどのようにも成ってしまうだろう。そのような大事が私に務まるとは思えなんだ」
 実際、信繁が自身の次男の傅役として望月を示した折、その場にいた誰もが耳を疑ったものだ。望月は信繁の小姓として幼少時から仕え上げ、その忠誠と優秀さは疑うべくもない。しかしながら傅役は、人間嫌いな彼には明らかに「向いていない」役であった。
「直接御心底をお聞きしたわけではないゆえ、はきとは言えぬが、―――或いは殿は、大八殿のみならず、お前自身が成長するようにとお考えだったのやもしれぬ」
「どういう意味だ、」
 海野の言葉に、望月は不機嫌な声を上げる。
「お優しいお方だ。人間味のないお前を案じられたのであろう。果たしてその思惑は、この通り果たされたというわけだ」
「お前の言うことはさっぱり分からぬ」
 膨れっ面をつくる望月に、海野は穏やかに笑んだ。
「安心致せ、大八さまは、まっすぐにご成長遊ばされた。お前が傅役であることを忘れるほどにな。子供らしく、すなおな性根はきっと人から好まれよう。―――どこへ行ったとしても。そうは思わんか」
 海野の言葉に、望月は僅か思案するように口を閉ざす。眼裏では、幼子が現世の迷い事など何一つ知らない無邪気ではしゃいでいる。
「殿の幼い頃に、似ておる」
 直接の答えにはならない返しだった。しかし海野は満足そうに、口角を持ち上げた。
「そうか。ならばお前は良い傅役だったということだ」
 望月の首に巻いていた風呂敷を外してやり、床に散らばった毛髪を集めた海野は、立ち上がる様子のない昔馴染みの隣に腰を下ろす。
「長の勤め、御苦労だったな」
「縁起でもない言い方だ」
 憎まれ口を叩く望月の表情は、泣きそうでありながら笑んでいる。そのぎこちないやわらかさをたたえた表情を、大八の傅役という命を受けた時の戦慄の表情と較べていた海野は、随分変わったものだと口角を持ち上げた。







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