□神のいないオラトリオ
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 喉を削り取るような声で名を呼ばれ、僕は総毛立ったのを感じた。
 名を呼んだのは、髪を振り乱して鬼の形相を呈したシリウスだ。僕は彼の怒りに歪んだ、それでいて泣き出しそうな表情を真っ直ぐに見据えて立ち尽くす。近くを歩いていたマグルが何人か僕たちを見て何かを話している―――そんなことを把握出来るほどに、思考は冴えていた。
「何故……っ、なぜ裏切ったピーターッ!!!」
「裏切った……?」
「ヴォルデモートにジェームズの居場所を教えただろうッ! お前は、二人を殺したんだ……ッ!!」
 シリウスは泣いていた。僕に向けた杖を握る手は震えている。
「……裏切るも何も、君ははじめから僕を信じてはくれなかったじゃないか……、」
 僕は唇を噛んでシリウスを見詰めた。彼は僕が一番に憧れ、羨み、近付きたいと思っていた男だ。だけれど僕のそういう想いをすべて踏みにじり、足蹴にしたのは、紛れも無い彼自身なのである。
「君は僕を信じてくれなかった。だから、僕は、君の考えではなく自分の意志に従ったんだ……」
 あの晩から胸に巣喰い続けた虚無を口にすれば、ますます苦しい。
 僕は杖を取り出した。構えの姿勢を取る旧友と決闘をし遣り合ったところで、実力差は目に見えている。
「シリウス、あのね、」
 己の小指に杖を押し当ててシリウスの頬を伝う涙を眺めた。一度でもあの涙が僕のために流されたことがあれば、僕たちは屹度このよな対峙をすることはなかったのかもしれない。
「君に会わなければよかったと思うんだ……」
 シリウスの表情が怪訝そうに歪む。小さく杖を振った瞬間、途方もない激痛が手先を襲った。
「ピーター!!!」
 シリウスの怒号が僕の名をなぞる。それはたった今の僕の行動に驚いたのかも知れないし、彼とは全く別の方向へ杖を向けた僕の意図に気付き牽制せんとしたのかもしれない。杖は瞬間辺りを明るく照らし、次の瞬間には周囲を粉々に吹っ飛ばしていた。マグルの悲鳴がやかましい。
 僕は無我夢中で己に杖を向けた。鼠になる直前、シリウスの表情が目に飛び込んで来る。―――目を大きく見開き、口唇を青白く震わせたその形相を、僕は忘れられそうにない。


  *  *  *


 ジェームズとリリーを殺そうだなんて、よもや考えるはずもないのだ。二人とも学生の頃はよく僕を助けてくれた、かけがえのない友だ。
 シリウスとリーマスの話を耳にしたあの夜、僕はどこを通ってどのように家に辿り着いたのかは解らない。気付いたら埃の溜まった部屋の、壁沿いに据えたベッドの上で放心していた。灯りは消えたままだった。

(「―――あいつには、俺を裏切る勇気もないだろう」)

 シリウスの声は脳裏にべったりと貼りついて離れない。言われてみれば、確かにその通りかもしれないと我ながら思った。多分に偏った見方をする所はあるにしても、シリウスは人を見る目が確かだ。だから、シリウスは僕以上に僕のことを理解っているのかもしれない。
 ―――それじゃあ、死さえも覚悟した僕の決心は、嘘だったということか?
 僕はきつく瞑目して両手の指を組み合わせた。震えはまだ止まらないが、掌で自分自身を感じていると、少しだけ安心出来る。
 己の決心を否定することは僕には出来なかった。それは、僕自身を否定し拒絶する行為に他ならない。
 ふと顔を上げてデスクの上を見ると、かつて、グリフィンドールがクィディッチの試合で優勝した時の写真が視界に入る。それぞれ選手のユニフォームを纏ったシリウスとジェームズが寮旗の前で肩を組み、笑顔で拳を空へ突き上げている。そしてジェームズの隣にはリーマスが、シリウスの隣には僕が立って、この二人の功労者を拍手で称賛していた。

(……ぼくは、)

 頭も悪ければ運動も得意ではない。シリウスの作り物のような美しい造作の顔と並べばまるでドブネズミのようにみっともない外見で、おまけに人付き合いも下手くそだった。
 僕は、シリウスが眩しくてならなかったのだ。彼は僕にないものすべてを持っていたから。そしてシリウスと同じ世界で、同じものを見て、感じて、考えたいと希っていた。少しでも彼に近付きたかった。

(……ぼくは、)

 ただ、シリウスに何か一つでも良いから『認めて』欲しかったのだ。
 だけれど彼は僕を認めるどころか信じてさえくれていなかった。僕が学生時代以来必死に追い掛けてきたものは、僕が収まることのできる居場所は、何処にもないのだと―――他でもない、彼自身の言葉が、僕の目前にそう突き付けたのである。
 胃の腑が沈み込むほどの虚無を、僕はどうしていいのか分からなかった。


  *  *  *


 醜い鼠の姿で、僕は真暗な下水道の地下水路の中を必死に走った。一晩も、二晩も走り続けて、逃げて、見知らぬ街まで来た時、人気のない廃墟で数日振りに己の身にかけた魔法を解いた。
 全身は汚泥に塗れ、腹がひどく空いていた。
 息をついてふと己れの手を見下ろす。9本しかない指は、自分自身が仕出かした事を嫌でも呼び起こした。
 半ば、自暴自棄になっていたのだ。シリウスの傍に僕の居場所はない。そう思い知った僕が持っているものといえば、彼が命に換えても守りたい重大な秘密ただ一つだ。
 ―――もしこれを、闇の帝王に教えたならば……。
 ヴォルデモートがポッター夫妻の息子であるハリーを狙っていることはもちろん僕も知っていた。言わば僕の行動一つで、騎士団と死喰い人のどちらに形勢が傾くかが決まるのだ。
 ならばもし僕がこの秘密を漏らしたならば、闇の陣営ではこの上ない大手柄になるはずだ。
 この際、僕のことを認めてくれる人間がいるのならば誰でも良いとさえ思った。
 僕は、この甘い囁きに、乗ってしまったのである。

(「あいつには、俺たちを裏切る勇気はないだろう」)

 再び脳を掠めたシリウスの言葉に、これまで感情をせき止めていた堤防が決壊した。
 僕は親友の命を売った。
 それなのに死喰い人たちは僕を汚いものを見るかのような目で見下ろし、侮辱した。過去に犯してきた罪は遥かに彼等の方が重いはずなのに。
 こんなはずではなかったのだ。僕が握る重大な秘密は、僕の揺るぎない地位を確立するはずだった。
「……ジェームズ、リリー……っ」
 搾り出した声はまるで己のものではないかのように嗄れ、掠れている。今更になって、己の行った所業の恐ろしさが僕を取り巻く。

 僕は一晩中、嗚咽を漏らして泣いた。










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