□神のいないオラトリオ
3ページ/5ページ



     3


 "13人"を殺したシリウスがアズカバンに投獄されて12年、そして私がウィーズリー家のペットの鼠として生活するようになって10年が経つ。子供のペットの鼠が、実は死んだはずの人間の仮の姿だと誰が考えるだろうか。その点でこの10年間は、窮屈さはあれど穏やかで安全な暮らしが約束されていた。しかし、それもいつまで続くか分からない。
 シリウスがアズカバンを脱獄した。更に悪い事には、このホグワーツの何処かに潜んでいるというのだ。彼が例のあの人を斥けたハリーを狙っているのではないか、と日刊予言者新聞では取り上げられていたが、それは大きな間違いである。
 彼は、何らかの方法で私がホグワーツにいることを知り、私を探しているに違いないのだ。
 奇しくも今この城には私とシリウスの他にもリーマスとスネイプが教職員として在職し、そしてジェームズとリリーの息子であるハリーが在学している。一体何の因果だろうかと―――私は小さな鼠の姿のまま、出来るだけ小さく蹲って隠れていることしか出来ない。
 ―――何とかしてホグワーツを脱出しなければ。私の心は込み上げてくる恐怖に逸っていた。
 鼠の姿をした私の飼い主であるロン・ウィーズリーはハリーの大親友である。シリウスがかつて溺愛していたハリーの姿を見に来ないとも限らない今、このままハリーに近しいロンの庇護下にいるのはあまりに危険だった。私は意を決して逃亡を図ることにした。
 しかしここで、問題がひとつある。アズカバンを脱走した囚人として吸魂鬼に追われているシリウスは恐らく人目につかないようにアニメーガス(黒犬)の姿をとって何処かに潜んでいるに違いない。そうなると鼻が利くため、たとえ私が鼠の姿でいても見付かる可能性が高いのだ。逃亡にはシリウスの居場所を正確に把握する必要があった。
 そこまで考え、私の脳裏に過ぎったのは『忍びの地図』である。学生時代、シリウス・ジェームズ・リーマス、そして僕が協力して作り上げたこの『悪戯道具』は、迷宮のようなホグワーツの中の抜け穴や隠し部屋を網羅し、誰が何処にいるのかを教えてくれる。つい先頃まではハリーの手元にあったようだが、今はリーマスが所有しているらしい(ハリーがロンに話していたのを聞いた)。
 リーマスの研究室に忍び込む―――限りなく危険な行為ではあるが、背に腹は替えられない。あの夜の真実を知っているのは私とシリウスのみなのだ。たとえリーマスに出くわし、私の生存が明らかになったとしても、言い逃れることはいくらでも可能だろうと思えた。


  *  *  *


 私は満月の夜を選んでリーマスの研究室へと忍び込んだ。人狼である彼が、この晩は脱狼薬を飲んで寝室に篭りきりであることは、既に調査済みである。
 明るい月光が差し込む研究室は、灯が必要ない程度に薄暗い。古めかしいトランクや気味の悪い置物を横目に歩を進めた私は、執務机の前で立ち止まった。部屋の中に人の気配はない。この世界で息づいているものは私一人なのではないかと云うほどの静寂に少し安堵して、息をつく。
 学生の時分はこういった空気がひどく苦手であったはずなのに、不思議である。それは逃避の果てに身についてしまった哀しい性であるように思えた。
 執務机の鍵のついた引き出しを開けるには魔法を使わなくてはならない。しかし、鼠の小さな指で杖を握ることは至難の業である。私は仕方なしに人間の姿に戻った。節々が鳴り、視界の中の景色が変わる。
 久々の本来の姿は自分自身の身体でありながらえもいわれぬ不快感が全身に満ちていた。不具合。私は生まれてきた当初から自分が鼠であったように、不慣れな大きい身体を動かして、首を巡らせる。ふと視界に入った満月に目が眩む。僅かよろめいた私の身体を支えたのはボウル状の器を配したサイドテーブルだった。その器を私は知っていた―――憂いの篩、である。篩の中にはリーマスの記憶が幾つか湛えられているようだ。
 私は咄嗟に、それを見なければならない、と思った。理由は分からない。満月のためにリーマスが寝室から出て来れないとは言え、長居は禁物である。一刻も早くシリウスの居場所を知り、ホグワーツから脱出しなければならない。―――しかしながら脳内では、たとえ危険を犯してでも彼の"憂い"を知る必要があるとの声が響く。
 私はぎこちなく踵を返し、サイドテーブルに向き直った。震える手で篩の縁にに触れると、その振動が伝わり水面が小さく揺れる。そのまま引き込まれるように憂いの篩を覗き込んだ。鳴り響く拍動が耳に騒がしい。


 現れた空間は、どこかのパブのようだった。仄暗い店内のボックス席に立つ私は、向かいの席に二人で腰掛けた青年を見下ろしていた。若き日のシリウスとリーマスが真面目な顔で話し込んでいる。
 ―――私がこの記憶が、あの晩のものだと気付くのにはそう長い時間は必要なかった。
『でも驚いたな。君がジェームズとリリーの守り人を蹴るなんて』
 バタービールを口にしながら穏やかな声で言うリーマスは、少しだけ肩を竦める。シリウスの行動の意図が掴めない、とばかりにその表情は優れない。そんな親友の姿に一度口をつぐんだシリウスは、すぐに口角を持ち上げて含み笑いを漏らした。
『うん、他の奴らにも言われたよ』
『君のことだから何か企んでいるんだろう』
『なんだよ、人聞きが悪いな』
 一瞬眉根を寄せたシリウスはすぐに頬を緩ませる。テーブルの上で汗をかくジョッキには淡色のペールエールが湛えられていた。私は高鳴る鼓動を鎮めるように、その泡を見詰めた。
『死喰い人たちだってまさかあんなワームテールを守り人にするとは考えないだろう』
『その裏をかいた、と?』
『ああ。あいつには俺達を裏切る勇気もないだろうからな。最も適任って訳さ』
 私は笑うシリウスの顔を真っ直ぐに見詰めた。少し伏し目がちな視線は、彼には見えていないはずの私に向けられ、口角は依然上がったままだ。
 正直なところ、私は拍子抜けした。私の人生を揺るがすほど冷ややかで不躾な言葉を発した張本人は、その言葉に似つかわしくないほどその表情に穏やかさを滲ませていたのだ。
『また、そんな憎まれ口を……』
 リーマスに呆れ声で窘められたシリウスは、肩を竦めて首を横に振って見せる。
『こういう時代において、臆病は決して悪いことじゃないだろう。まして守人は生きて、秘密を守ることが務めなんだから』
 微笑うシリウスのグレイの瞳から私は目が離せずに、あまつさえ身動き一つも取れずにいた。
 大いなる恐怖が私の身体をがんじがらめに縛っていたのである。シリウスは、私を信じてくれていなかったのではない。その逆だ。あの言葉は口の悪いシリウスの素直ではない評価だった。―――だとすれば、私が仕出かしたことは、ジェームズとリリーの死は、すべて無意味であったということだ。
 私の驚愕はあの晩、シリウスの言葉を聞いた時とは比べものにならないほど巨大で絶望的であった。
『俺は「死にたがり」だからな。ワームテールのことは、俺が命に代えても守ってやればいいだけの話だ』
 景色が揺れ、白んでゆく。すべての音が、ものが遠ざかる中、シリウスの優しく穏やかな微笑はついぞ崩れることはなかった。












次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ