□海野の家出?
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 壱

 寒々と冷えた空気がたてつけの悪い建物の中に入り込み、身を脅かす、年末のある日。紀州九度山の真田庵に、ひとつの怒声が響き渡った。
「―――っ、いい加減になされませ、信繁さま!!!」
 それは紛れもなく怒鳴られた男に最も忠実な家臣、海野六郎のものである。声を聞き付けて各々の部屋から顔を出した庵の住人たちは、何事かと信繁の自室の前で耳をそばだてた。
「それは此方の台詞だ、六」
「お戯れも大概になさりませ。そのようなことを仰られるようでは、亡くなられた大殿もお嘆きになりまするぞ!」
「ふん、死人に口なしだ!」
「何と言うことを……っ!」
 まさに売り言葉に買い言葉。聞耳を立てていた住人たちは、その双方の剣幕に圧倒されて止めに入ることすらできない。今まで喧嘩などしたこともない二人の様子を、障子一枚隔てて伺うより他ない。


「あなた様がそのように薄情であらせられるとは、この六めは存じ上げませんでした」
「私は知っていたぞ、お前が固い石頭の頑固者だと言うことをな!」
「左様にございましたか。されば私は実に鬱陶しかったでしょうね!」
「漸く気付いたか」
「そのように仰られるのでございましたら」
 海野はそう言うと一度口をつぐみ、何やら信繁に差し出したようだった。

「実家に帰らせていただきとう存じます」

 ―――沈黙。住人たちは目を見開いて互いの顔を見合わせる。

「勝手にしろ」

―――えぇええぇっ?!

 信繁の冷ややかな声音に、猿飛佐助や根津甚八などが驚きの声を上げたのを慌てて黙らせ、けれども他の男たちも明らかに焦った様にしている。

「それでは。失礼いたします」
 ぴしゃりと言った海野が勢いよく住人たちが耳を近づけ盗み聞きをする障子戸を開け放つ。海野は彼等をひどく無感動な目で見下ろすと、何も言わずに自室の方へと歩いていった。







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