□たはぶれにくし
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「臣下は、主が辱められたならば死ぬものだと言います」
「……私は、辱められたのか」
「お気づきでないのですか、」
「近頃耳が遠くてな……囁かれる戯言は耳に入らぬ」
 だから、な、
 信繁は眉尻に笑い皺を刻んで、小さく目を細めた。
 与えられた屋敷にはまだ慣れなくて、常々真田庵を懐かしんでいる。此処では何もかもがよそよそしい。だけれどそれゆえ却って気が引き締まるというものだ。もっともそれは己れ一人のみにとってのことかも知れぬとうそぶいて、未だ不貞腐れたままの従者をなだめた。
 悔しゅうございます、と叫ぶなり腹を斬ろうとしたこの男は、平静の憎らしいほどの落ち着きは何処へ投げ捨てたのやら、子供のように拗ねている。
「よしんば私が辱められていたのだとしても、お前が死んだところで何も変わらぬよ」
「されど……っ」
「随分と気が立っているなあ。お前、何時から猛犬に宗旨替えしたのだい」
「信繁さまっ」
「わかったわかった。斬りたければ斬るが良い。介錯もしてやろう。だがな、それでは誰も得はせぬし、お前が意味もなく死ぬだけだ」
 それゆえ、私も、この先戦えるものかどうか。
 溜め息混じりに呟くと、え、と間抜けな声がその言葉を聞き咎める。信繁は態とらしく悲痛な面持ちで頷いて、
「お前がいなくては私はどう戦って良いものか分からぬゆえ」
「お戯れを」
「まことだよ。……疑うのなら、試して見れば良い」
 同じ死ぬのならばその方が面白かろう、と信繁の笑みが深まる。対する間の抜けた面が、それは大層苦々しく歪んだのも、無理らしからぬことだ。
「どうしたい、ろく」
「腹を斬るのは辞めにします」
「そうか。安心したよ」
「わたくしがあなたさまの言葉を間に受けて死んだらどうするおつもりですか」
 従者は今度は怒りの矛先を主君に向けたようだ。否、怒り、というよりは呆れ。あなたさまにとって多大な損失にございますよ、と平気な顔で言ってのける彼は、やはり紛うことなく『真田信繁』の無二の忠臣なのである。

「その時は、ほかを探すまでだ。そのようなうつけは要らんからな」
「取り付く島も無いお言葉ですなあ」
「ふ、ふ。そうか」
「いやはや御意に。用心せねばなりますまいなあ、わたくしはあなたさまのこととなると大うつけになりますゆえ」

 くつりと笑った従者は、戯れに愛刀の鍔を弄り始める。信繁も笑声を上げてから、自らの腰の物を取り出してその鍔に付き合わせた。

 がちゃりと音を立てた鍔同士はそれきり黙りこくって、二人の戯言をのんびりと聴いているだけだった。










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