□胡蝶の夢
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 気付けば、私は花の蜜を貪り彼方へ此方へと飛び回る蝶であった。

 見渡す限りには桃や橙の花弁が揺れるばかりで、他に動くものの姿は何一つ、見受けられない。
―――此処には戦さえも、ないのだ。

 そう独りごち、はて、戦とは何であったろうかと惚とする頭で思った。
 忘れてしまったということは取りとめのないことなのやも知れぬ。たたかう、のはひどく哀しくて、辛い行為だった気がする。

 真新しい、溢れんばかりの蜜を湛えた花がツと視界の内に入った途端―――意識は次第に、それに蝕まれていった。

―――何か、なにか大切なことを忘れているのではなかったか………?

 小さな小さな脳内に響く警鐘なども気にならぬ中、ふよ、と少しだけ今までより高い位置を飛んだ。何もかも、気にならぬ―――だって此処は、ひどく居心地が良いのだ。


*


「…………ろく。平気か、」
 気遣わしげな声音が頭上から降ってきて、慌てて海野は顔を上げた。
「これは、信繁さま」
「居眠りとは珍しいな。疲れているならば遠慮せずに部屋で休んで来ても良いぞ」
 どうせ時間は有り余っているのだからな、と信繁は海野に苦笑してみせる。すまなそうに海野が頭を下げてそれを辞すると、彼の様子が平静とは違うと悟ったのだろう、信繁はいよいよ心配したように彼の顔を覗き込んだ。
「どうかしたか? どこか、身体の調子が悪いところでも?」
「いえ、左様なことは。なれど……近頃夢見が良くありませんで」
「夢見、か。珍しいな」
「御意に」
「話してみよ」
「は、しかし……」
 信繁の言葉に、海野は困惑を見せて躊躇う。
「良い。気休め程度にはなろう」
「―――夢の中で私は、蝶にございました」
 覇気のない微笑を浮かべてみせた海野は、至極遠い目をして信繁が開け放ったままの障子の向こうを見遣る。何処を見るではなくさまようその瞳はただ、あのとりどりの花が咲き乱れる野を捜し求めた。
「胡蝶の夢だな」
「はい。……私は己の事どころか、何のために戦っていたのかさえ、忘れてしまっておりました」
「それで、気落ちしておるのか」
「私は、生まれてこの方私益の為に戦に臨んだことはございませぬ。すべて、主命を全うするために戦って参りました。―――其れを忘れてしまうなど、己が情けのうてなりませぬ」
 其れは己れが生きている意味さえも忘れてしまったということで。たかが夢、されど夢、だ。胸の臆底で其れを失っても構わぬとちらとでも思ったが故にあの様な夢を見たのであれば、其れは赦されるものではない。否、赦しては、ならない。例え何人が赦してくれようとも。
「……ろく、」
 信繁は少しだけ、笑みを含んだ目で海野を見据えた。は、と応える忠臣の目に、平静の如き余裕は見受けられない。
「私とて戦など、無ければ良いと思う。人を殺すのは容易だが、その癖、己れに近しい者を喪うのは恐ろしいのだからな」
「貴方さまでも、そのようにお思いになることがお有りで?」
「おお、そうとも。私の気の小ささは、お前が誰より知っておろう」
「そのような」
 ふっと吹き出した海野に、信繁もまた満足気に笑んでみせた。
「ようやく笑ったな」
「これは、失礼を」
「いや……忘れていても、構わん。その方が、屹度幸せだろう。ただし、戦の度に思い出して欲しい」
「私は二度と忘れませぬ。貴方さまもまた、そうなさらぬ限り」
 真摯な言葉に、信繁は小さく首を振って目を伏せた。この生真面目な従者は、どこまでも己に忠実だ。それゆえ、時折言いようのない不安に襲われることもある。
 それでも、不安は何も生み出さないことを知る彼は、殊更明るい声音で海野を見た。
「蝶であったのが夢か、今こうしているのが蝶の夢か解らぬが―――私は、お前たちがいる此方が現実なれば良い」
 お前はどう思う、と信繁は首を傾げる。海野は口元を綻ばせて微笑んだ。










胡蝶の夢
(はかない人の世も、貴方様の側に在らば。)

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