□unkown
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 伊三は真新しい墓石からは目を離さずに、今しがた摘み取ったばかりの花を手向けた。
 生き物の気配が感じられないその冷たい石からは、生前の姫の姿を想起することすらかなわない。それでもなお、見詰め続けた。

 於市の死に際し、葬儀の一切を手配し、仏前に経を上げたのは他ならぬ伊三だ。僧籍に身を置いているからというばかりではなく、己がやらねばならぬ、というある種の責務が心中にあった。絶えずやさしくたおやかな笑みを向け続けてくれたあの二の姫に、伊三がどれほど癒され救われてきたか知れない。於市には左様な積もりが聊かもなかったとしても、伊三は何とかしてそれに報いなければならないと感じていた。

「ひめさま、」

 若く美しい盛りの時代を病床で過ごし、己より年かさの者に看取られて逝った於市の心中は図り難い。けれどもその生涯を、悲観してやることはできない、と伊三は思う。それは誇り高く生きた於市への冒涜だ。遺された者が死者へ出来ることなど、何一つとしてないのかも知れない。
 人は忘れる生き物だから、伊三がどれほど足掻いたところであのあたたかな笑顔も、声音もきっといつかは忘れてしまう。伊三には於市がそれを望んでいたようにも思えた。死の淵で彼女は二親へ己の早世を繰り返し詫びていた。信繁の於市を喪うことに対する悲しみが癒えることを願っていた。そのためならば己が忘れられても構わないと考えていたにちがいない。於市とはそういう女(むすめ)だ。
 幼い頃から病に臥せりがちであることを気にするあまり、己を犠牲にしてでも他人の喜ぶ姿を見たがった。その姿勢を、父である信繁が憂えていたことを於市は結局知らず終いだっただろう。
 そんな於市に我が儘を言わせ、それを叶えてやりたいと常々考えていた伊三だ。たとえ於市の声を忘れ、顔を忘れてしまっても、於市が確かに生きて、其処にいたことを忘れることなどできない。
 今更この歳で、あのように年若い姫に恋をしたとも思えない。だけれど家臣として以上の想いが、息づいていたのは確かなことだ。

「於市さま」


 名を呼ぶ度にさざめく胸臆を鎮める術を、伊三はまだ知れないでいる。










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