企画
□理想と現実
1ページ/1ページ
特に多くを望んで生きてきた訳ではない。
慎ましやかであっても、それでも幸せに、幸せだと思える生き方をしてきた。
理想などあまり持たず、ただ淡々と現実を見て生きてきたつもりだ。
高い理想など、現実の前ではどこまでも脆い。
大事なことは目の前のことを受け入れること。
それだけだ−−。
ちんとんしゃんと私の指が音を弾き出す。
舞いなど見ても居ないように、酒宴は盛り上がっていた。
それでもその酒宴に色を添える舞いは、見ていないとは思っても、必要なものなのだと知っていた。
一見さんお断りの茶屋。
そこで芸妓を舞わせる意味。
それが社会的地位を誇示する。
お金があること、地位があること。
ここではそれだけが必要。
静かに伏せて辞儀をする芸妓に、べべんと最後の音を弾く。
芸妓ではない私の仕事は、これで終わり。
後のお座敷遊びは、芸妓が引き受ける。
頭を下げた私に、
「もう一曲。」
静かな声が掛けられた。
まただ。
賑やかな酒宴などどこ吹く風で、静かに盃を傾けるその人。
真選組の副長様。
鋭い双眸は、いつもこちらへ向けられていた。
そして、終わると必ず、もう一曲と告げられる。
いつも通りに視線を外し、頷くように辞儀を返す。
芸妓に視線を向けると、得心尽くで頷かれた。
撥を握り直し、再び弦を弾く。
この曲が終わると、またもう一曲と告げられる。
そしてその一曲で、いつも終い。
芸妓も私も、それがいつもであることを知っている。
だから、真選組の方が来ると聞けば、常に三曲用意してお座敷に上がる。
けれど今日は三曲終わっても、もう一曲とねだられた。
はたと頭を下げることも忘れて、その人を見てしまった。
芸妓がちらりと私を見た。
「ご希望などございますか?」
見たい舞い、聴きたい曲でもあったのかと問えば、いや、と少し戸惑うような声。
「では後は芸妓の方で引き受けますので。」
私はこれでと立ち上がると、何故かその人も立ち上がる。
手洗いかと思い、先に襖を開けると、彼はするりと廊下へ出た。
後に続いてそのまま座敷を辞す。
「あんたは芸妓じゃねぇんだな。」
彼はまだ廊下へ佇んだまま。
確かめるような物言いに、ちらり顔を窺えば、こちらは見ずに真っ直ぐを見ていた。
「ただの三味線弾きでございます。」
お耳汚しをと言うと、また、いや、と言われる。
「座敷に上がって、生計立ててんのか?」
「いえ、こちらには請われて伺うだけで。」
探るような問いかけに、何かしただろうかと考えを巡らす。
三味線の音が座敷から聞こえ始め、良いのかと見上げると、視線が絡んだ。
鋭いその双眸に、くらりと目眩がした。
多くを望んで来なかった私が、この眼差しを一心に受けたいと望んでしまう。
それは理想。
地位のある方に懸想など、意味のないことだ。
これが現実。
では、と頭を下げて帰ろうとすると、腕が引かれた。
力強い手は、大きく熱かった。
「座敷以外で、あんたに会いたいと言ったら、困るか。」
理想だとか現実だとか。
考えることも出来ず、ただ困りませんと呟いた。
.