企画

□理想と現実
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特に多くを望んで生きてきた訳ではない。

慎ましやかであっても、それでも幸せに、幸せだと思える生き方をしてきた。

理想などあまり持たず、ただ淡々と現実を見て生きてきたつもりだ。

高い理想など、現実の前ではどこまでも脆い。
大事なことは目の前のことを受け入れること。

それだけだ−−。



ちんとんしゃんと私の指が音を弾き出す。

舞いなど見ても居ないように、酒宴は盛り上がっていた。

それでもその酒宴に色を添える舞いは、見ていないとは思っても、必要なものなのだと知っていた。

一見さんお断りの茶屋。
そこで芸妓を舞わせる意味。

それが社会的地位を誇示する。

お金があること、地位があること。

ここではそれだけが必要。

静かに伏せて辞儀をする芸妓に、べべんと最後の音を弾く。

芸妓ではない私の仕事は、これで終わり。
後のお座敷遊びは、芸妓が引き受ける。

頭を下げた私に、

「もう一曲。」

静かな声が掛けられた。

まただ。

賑やかな酒宴などどこ吹く風で、静かに盃を傾けるその人。

真選組の副長様。

鋭い双眸は、いつもこちらへ向けられていた。
そして、終わると必ず、もう一曲と告げられる。

いつも通りに視線を外し、頷くように辞儀を返す。

芸妓に視線を向けると、得心尽くで頷かれた。

撥を握り直し、再び弦を弾く。

この曲が終わると、またもう一曲と告げられる。
そしてその一曲で、いつも終い。

芸妓も私も、それがいつもであることを知っている。
だから、真選組の方が来ると聞けば、常に三曲用意してお座敷に上がる。


けれど今日は三曲終わっても、もう一曲とねだられた。

はたと頭を下げることも忘れて、その人を見てしまった。

芸妓がちらりと私を見た。

「ご希望などございますか?」

見たい舞い、聴きたい曲でもあったのかと問えば、いや、と少し戸惑うような声。

「では後は芸妓の方で引き受けますので。」

私はこれでと立ち上がると、何故かその人も立ち上がる。

手洗いかと思い、先に襖を開けると、彼はするりと廊下へ出た。
後に続いてそのまま座敷を辞す。

「あんたは芸妓じゃねぇんだな。」

彼はまだ廊下へ佇んだまま。

確かめるような物言いに、ちらり顔を窺えば、こちらは見ずに真っ直ぐを見ていた。

「ただの三味線弾きでございます。」

お耳汚しをと言うと、また、いや、と言われる。

「座敷に上がって、生計立ててんのか?」

「いえ、こちらには請われて伺うだけで。」

探るような問いかけに、何かしただろうかと考えを巡らす。

三味線の音が座敷から聞こえ始め、良いのかと見上げると、視線が絡んだ。

鋭いその双眸に、くらりと目眩がした。


多くを望んで来なかった私が、この眼差しを一心に受けたいと望んでしまう。

それは理想。

地位のある方に懸想など、意味のないことだ。

これが現実。


では、と頭を下げて帰ろうとすると、腕が引かれた。

力強い手は、大きく熱かった。


「座敷以外で、あんたに会いたいと言ったら、困るか。」


理想だとか現実だとか。

考えることも出来ず、ただ困りませんと呟いた。



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