駄文
□WiSH〜Teddy Bear
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あげるよと笑みを湛えた瞳に後押しされて小さな鍵を受け取った。要らねえよとぶっきらぼうに答えたのに、いいからいいからとわざわざ手を取って押し付けられては無碍に断ることも出来ない。体温に温もった鍵を手のひらでそっとくるむと、目の前で珍しく破顔した顔に思わず見惚れてしまった。
使う必要が無いのは分かっていたが、自宅の鍵と並べてホルダーに収めているだけで不思議と繋がっていると安心出来た。物理的な距離が小さな鍵一つで埋められたような…くすぐったくなるような甘い気持ちに駆られた。
カチャリとドアノブを開けてそっと体を滑り込ませた。物音一つしない。夜が生活の基盤である水戸は多分まだ眠っているだろう。どうやら起こさずに済んでホッと詰めた息がこぼれた。
ゆっくりと廊下を抜けて居間に足を運ぶ。相変わらず生活感の乏しい室内だがそこが水戸らしいとも思う。
造り付けの本棚にはまた新しい本が増えていて、離れていた時間を彷彿とさせた。
フラワーアレンジメントの写真集に植物や鉱物の図鑑、有名な絵画の画集やらが整然と並んで隙間を埋めているのは様々なジャンルの文庫本だ。一番下に色分けされたファイルは3紙も購読している新聞の切り抜きだと以前教えてもらった。
三井にはよく分からないが、接客を生業にしている水戸にはどれも必要なのだそうだ。多分自分なら絶対手に取らないであろうジャンルの本を眺めるだけでもなんだか嬉しくなる。
三井が水戸の店を訪れてから、一年近く経った―――
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「さっむ」
合わせたコートの襟をぎゅっと手で握りしめた。見上げたビルの壁面の電光掲示板には−5℃とあって余計寒くなった気がする。見なけりゃ良かったと呟いて小さく溜め息をついた。
運が良ければ美味い酒が飲める店だと、取引先の社長が愉快そうに笑った。観光客などめったに訪れることのない店だとも言われた。
(もし君がそこで一杯飲れたらお宅の出した条件そのままで取引しようじゃないか)
どこまで本気なのか分からないがここまでこぎつけるのに半年もかけたのだ。冗談だろうが何だろうがここで引き下がる訳にはいかない。来月もあのクソ親父の顔を拝む為にこんな極寒の地に来るなんてまっぴらだと、三井は腹の中で毒づいた。
定休日も決まってなければいつ店が開くかも決まっていない。
電話帳にも店の名前は載ってなくて…それでもそこで出されるカクテルはどんな名店で出される酒と違う…
(ホントにあんのかよ?ボケてんじゃねえの?)
飛行機をキャンセルして、ホテルを延長して、会社に有給まで取って(出張扱いにしてもらえなかったのだ)三井はもう5日もこうして幻覚のような店を探し歩いていた。
細い路地を覗いてありふれたビルの景色に嘆息が出た。俯きながら身を返した三井に誰かがぶつかった。
「イテッ」
「あ、すみません」
慌てて顔を上げたら2人連れの若い男で、片方の背の低い青年にぶつかったようだ。
「すンません、オレよそ見してて」
ぺこりと頭を軽く下げて、やけに人懐っこい笑顔を向けてきた。いやこっちもぼーっとしてて…などと口ごもりながらもつられるように三井も頭を下げた。
「オイ行こーぜ」
傍らの連れの青年がつまらなさそうに促すのへ笑顔で頷いて、もう一度三井に向かって軽く会釈してくるとあとはもう振り向くことなく歩き出した。
あ、そーだ!と声がして何気に三井が振り向くと、先ほどぶつかった方の青年がこちらを見ている。訝し気な思いが顔に出ているのだろう…三井に向かって屈託ない笑顔を向けると
「メリークリスマス♪」
と言ってきた。唖然としてる三井に手を振り、先をスタスタと歩いている連れの背中を追いかけて行ってしまった。
(…変なヤツ)
難癖をつけられなかっただけ、マシかもしれない。
「メリークリスマス、ねぇ」
ふと笑いが込み上げてきた。そういえば今日はクリスマス・イブだ。よりにもよってこんな日にあるかどうかも分からないような店探しに奔走している自分が可笑しくなる。
「楽しいクリスマスを…か」
誰かとそんなクリスマスを過ごしたのはいつだったろう?もうずいぶん楽しいクリスマスに縁がないような気がしてげんなりとしてきた。
書類と数字と上司に追い立てられて季節の移り変わりはカレンダーを捲って気付く。そんな日常にうんざりしても変える努力をする気力すら湧かない。
ふと視界の片隅に動くものを感じて振り返った。ビルについたドアがちょうど閉まる所で、あんな所にドアなんてあったろうか?と三井は首を傾げた。どうにも注意力が散逸してるらしい。耳奥で今し方かけられた声がよみがえる。何かに後押しされるように、三井はそのドアを開いた。
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ぼんやりと追憶に耽っている内に、陽が傾いているのに気付いて腕時計を見る。思ったよりも時間の経っている。そろそろ水戸を起こしてやってもいいかもしれない。相変わらずいつが定休日なのかも三井にはよく分からないのだが…
今日、来道するとは告げてない。明後日の最終便で帰らなければならないし、次にこの部屋に来れるとしたら多分ゴールデンウイーク辺りだろう。もう少し仕事を詰めれば何とかなるかもしれない。以前は与えられるノルマをこなすだけで辟易していたのに、こうして水戸と会う時間を捻り出す為に積極的に仕事に立ち向かうのも悪くない。茫洋とした日々を無為に送るよりも、目標を決めてがむしゃらになる方がよっぽど自分の性に合っていると思う。
驚く水戸の様子を思い描きながら寝室のドアを静かに開けて、三井は愕然と立ちすくんだ。
ホテルさながらに整えられたベッドが傾いた日差しを受けている。てっきり居ると思った主は不在だった。どうりで静かな筈だと思った途端、猛烈に腹が立ってきて三井は携帯を取り出して歯軋りしながら水戸の携帯にコールする。呼び出し音が空しく鳴るうちにどうにか話せるくらいには呼吸を整えた。不意にくぐもった音に気付いた。携帯を耳に当てたまま室内を見回してベッドカバーを外してみると、水戸の携帯がぽつんと着信に震えていた。
水戸のマンションから乗ったタクシーで店に向かったがドアは固く閉ざされていて、いくら叩いても応えがなかった。待たせていたタクシーに戻り新たな行き先を告げると、ミラー越しにチラチラとこちらをうかがっている初老の運転手の視線に気付いて、三井は深く座り直し目を閉じた。店には居ない…そう直感したが念のためと思って寄っただけだ。
ダイニングテーブルの上に切り抜かれた記事とファイル。
ポケットの中の携帯をぎゅっと握りしめる。およそ似つかわしくない場所に、本当にそこに居るのかさえ分からないけれど……
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ガラス越しにゆさゆさと体を揺らしながら雪の積もった岩山を登っては降り、登っては降りている。時々思い出したようにガラスに近づいて、こちらを覗くような仕草をしては再び飽きもせずに岩山へと向かっている。
平日の午後、人気のない施設は物思いに耽るのに悪くない。
目の前で行きつ戻りつしているのはどう見てもただのヒグマでそれ以外の何物でもない。
日課にしている新聞の切り抜きの最中に見つけた記事を見てから、胸奥に去来する形容し難い気持ちを抱え、水戸はこうして何をするでもなくぼんやりと佇んでいた。
大きな体が跳ねるような足取りでまたガラスにすり寄って来ると、ペタリと座り込んで鼻先を蠢かしながらガラス越しの水戸を窺うように頭を左右に揺らしている。
見慣れた…胸が痛くなるほど懐かしいヒグマの仕草に水戸の顔が綻んだ。笑みを湛えたままガラスに近寄る。
あれは本当にあった出来事だったのだろうか?
共に過ごした時間は本当に存在していたのか確かめる術はない…取り残された記憶が曖昧になっていくのが恐くなる。
打算も含みもない無垢な愛情で慈しまれ、惜しみない信頼を寄せられた…あの日々は――
「お前クマ好きなの?意外だな」