記念碑
□恋する水槽
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恥ずかしい、恥ずかしい…出来ることなら踵を返してこんな場所からサッサと立ち去りたい!
苦虫を噛み潰したような渋い顔付きで、不機嫌さを隠そうともせずに佇んでいる三井の周囲だけ、剣呑な雰囲気が気後れさせるのかほんの少しだけ空間が空いていた。
人いきれにむせかえりそうなほど混み合った大きな水槽の前には、見渡す限りカップルばかりがひしめき合っている。
(あんのクソチビ!来たらぜってぇぶん殴ってやるっ)
頭から湯気が立ち上るほどに腹を立てているのに、何故か《帰る》という選択肢が全く思い浮かばない…事にすら、三井は気付いていなかった。
(あの人は……)
辺り構わず怒りのオーラを撒き散らし、その場の空気を全く解していない三井をジッと見つめながら、宮城はひっそりと溜め息をついた。
それからおもむろに手の中に握り締めていた携帯を開くと素早く指先を動かした。
ポケットに突っ込んでいた携帯が震え、三井は慌てて携帯を取り出した。画面に浮かんだ受信メールのメッセージを開く。
『アンタ、何で来たの?』
不自然なくらい周りを見回す。なのに肝心のメールの差出人は見当たらず、三井は怒鳴りつけたい気持ちのままに返信する。
『てめえどこにいやがる』
折り返しのメールは会話しているような速さだった。
『アンタ、何で来たんだよ?』
『こいったろ』
『予定あるって言ってたじゃん』
『うるせえ』
『帰んなくていいの?』
『てめえぶんなぐるまでかえれっかよ』
『なにソレ』
一つ年下の生意気なチビが肩をすくめて笑っている声が聞こえそうな、メール――
『どこにいんだよ』
『うん…まあ近く?』
ふざけるのもいい加減にしろと怒鳴りたいのを、奥歯を噛み締めてやり過ごす。
『ようがないならかえるぜ』
『そー言わねぇで、もうちょっと付き合ってよ』
『だったらでてこい』
『ホラ俺ってシャイだからさ。恥ずかしくって』
だったらこの場に待ちぼうけさせられている俺の気持ちはどうなんだ!と三井は携帯を睨み付けながら思った。
もしかしたら殴ると書いたのがまずかったのだろうか?とも思ったが、そんな程度で引っ込むほどシャイでも控えめでもない相手なのを思い至って
『からかってんならかえる』
とだけ、返した。そして返信を待たずに携帯を閉じると、ふぅっと息を吐き目を閉じた。
きっと何処からか見ているんだろう…いや、もしかしたらこの場には居ないのかもしれない。三井はどちらでもいいような投げやりな気分で、俯いた。
《明日、来て下さい》
とだけ書かれたメールには、ご丁寧に行き先の地図が添付されていた。3年生は先週末から自宅学習期間に入っていて、どうにか推薦をもぎ取った三井は実際ヒマを持て余していたので、久しぶりに宮城に会えるのだとなんとなくウキウキした気分のまま、この水族館までやって来た。
人を待たせることはあっても、待たされる経験は三井には無かった。周囲のさんざめくような雑音が独りでいることを突きつけているようで、ふと物悲しいような気持ちが湧いてくる。そうして唐突に、いつも待たされる側の宮城の気持ちが分かったように思えた。
「遅刻しといて何でアンタってそんなにエラソーにしてるワケ?」
そう詰る宮城の頭を軽く小突きながら笑った。
「だいたいアンタ甘やかされすぎだっつの!ワビくれぇ言ってみせろよっ」
「オマエ怒ってばっかなのな」
「反省くらいしろよ!毎回遅れて来てさぁ…待たされる方の身にもなれよ!」
だったら帰ればいーだろ。そんな返事から喧嘩にもなったっけ…
宮城は…宮城は本当に来るのだろうか?これは今までの意趣返しなんだろうか?
いや、アイツはしない。そんな暗い仕返しは宮城はしない…と思う。そう思いながら、自分は宮城の何を知っているんだろうと思った。
一年前、屋上に呼び出した。
恥も外聞もかなぐり捨ててバスケ部に戻った三井を遠巻きに見つめる部員達の前で声を掛けてきたのは宮城の方からだった。
暑い熱い夏、持てる力以上にバスケに打ち込めたのは――
いつのまにか一緒に居ることが当たり前のように、なった。
しょうがねぇなと肩をすくめながらいつも三井を見つめる宮城の瞳の彩が好ましいと思い始めたのはいつからだろう?
もうすぐ…宮城と会えなくなる…
推薦のもらえた大学は関西で、春には念願の1人暮らしが始まる。さ来週には卒業して、それから……それから、
宮城と、逢えなくなる――
ふいに握り締めていた携帯が軽やかなメロディを奏でる。
《俺専用の着メロ、セッティングしといたから。コレ鳴ったらすぐ出ろよ?》
唇を尖らせて上目遣いに見上げてきた。
《あ、テメェ!勝手にっ》
《こーでもしねぇと電話すら出ねーだろ、アンタ》
《バカやろう!もーどうやっていじくったんだよ…》
買ったはいいが初期設定のまま放置していた携帯の使い方を聞いただけなのに。だいたい携帯なんて持つ気もなかったのに。何度か携帯が鳴る度に、布団の下に突っ込んでやり過ごしていたのだ、使い方が判らなくて。
《どーりで出ねえ筈だよ》
イマドキ携帯も使えないなんてと呆れながら、宮城は3歳の子供にでも教えるような口振りで三井に携帯の使い方を教えたのだった。
かかってきた電話に出ることが出来るようになり、たどたどしくも受けたメールの返信も出来るようになっても、三井からメールも電話もしたことは無かった。そんな三井のどこまでも受け身な態度に怒りをぶつけられても、やっぱり三井からの電話もメールも宮城の携帯に届くことは無かった。
『怒って出ねぇのかと思ったよ』
「怒ってんよっ当たり前だろ!!どんだけ待たせんだよ!」
『ヘヘッ…ゴメンね?』
「いーからサッサと顔見せろよ!!俺ぁ忙しいんだぞ、この野郎!」
『ヘーヘー……したらさ、ちょっと後ろ見てよ』
「あぁ!?」
『ホラ、ね?今、後ろ見てって』
携帯を耳に当てたまま、三井は振り返る。
視界いっぱいに広がるガラス越しの青い、どこまでも蒼い海がそこにある。名前も知らない魚達が悠然と過ぎる中、三井は一点を見つめたまま動けなくなった。
《好きです 宮城》
宛名の無い告白は三井の心臓を真っ直ぐに貫いた。
「………み、やぎ」
思わず零れ落ちた名前から、返事はない。耳元から聞こえるのは通話が断ち切られたことを伝える冷たい機械音。
グラリと視界が回った気がした。宮城が誰を好きでいるかなんて、疎い三井ですら知っていることだったから。
一目惚れしたから入部したと赤くなりながら打ち明けられた。
彼女の為に勝つと公言して憚らなかったし、試合の最中でさえも彼女の声を聞き漏らすこともなかった宮城を何度も見ている。こんな告白を見せる為に呼び出されたのかと、思った。
「センパイ」
低い声がして、誰かに支えられていることに気づいた。
「大丈夫ッスか?」
力強い腕がグイッと体を引き上げ、虚ろだった三井の視界いっぱいに思いがけない後輩の顔が映り込む。
「流川?」
何故ここに?と疑問を口にする間もなく流川は三井の左側に体をねじ込み、担ぎ上げるように三井の体を支えると人混みの少ない箇所へと揺るぎない足取りで連れて行った。
「わ、悪ぃな」
「ッス」
どうにか壁にもたれると三井はうっすらと笑みを浮かべた。
「お前、珍しいな」
「迷子」
「は?」
「探してたら…センパイが居た」
相変わらず単語が足りない奴だなと思いつつ、
「あ〜〜そりゃ悪かったな…もう大丈夫だからよ、ツレ探し行っていいぜ」
と言うと、流川は眉をひそめて首を振る。
それからスッと身をかがめて三井の耳元に唇を寄せてきた。
「泣いてると、困る」
吐息が掠め、低く囁かれてビクリと三井の体が震えた。
「オイッ」
邪険に身を離すと、不思議そうに流川が見ている。行動に他意がないのは分かった。誤魔化すように目元を拭いながら、乾燥してっから涙が出たんだ、と呟いた。
「早くツレ探しに行けよ…もう大丈夫だから」
「キャプテンは?」
「あ?」
「キャプテン」
「キャプ…あぁ宮城か?知らねえよ。テメェの告白でも見せつけたかったんだろ。今頃彩子とヨロシクやってんだろーさ。良かったんじゃねぇの?よーやくフラレ男脱却だぜ。わざわざんなトコまで呼び出されていー迷惑だよ、俺ぁよ」
まくしたてる三井の顔を、ジッと見つめてくる。
「……」
「何だよ、帰るぜ」
「……センパイ、今日鎌倉行くって言った」
「あぁ?」
「マネージャーとチョコ買う」
「だから、鎌倉行く前にここで」
「チガウ。キャプテンじゃねー」
「お前日本語足りねぇよ!何だってんだよ!」
ふぅっと息を吐くと肩をすくめ、流川は背を向ける。付き合ってられないと言わんばかりの仕草で。
「オイ!」
「『彩子センパイ』はチョコ買うって言ってた。だからここにゃ居ねー」
「え?」
ポケットから自分の携帯を取り出すと、三井に見えるように軽く振りながら黙って人混みに紛れて行った。