夕日もすっかり沈んだ、夜の気配が近付く夕方6時。
仕事を終え、いつものように家路まで近道として使っている公園を横切る。
木に覆われた公園は、何の因果か木星公園と呼ばれており、今日もしんと静まり返っていた。
急ぎ足で公園入口の砂場を渡っている途中に、"それ"に目が止まった。
始めは我が目を疑ったが、どっからどう見てもそれは女だった。
全裸の女だった。
色白の肌を惜しげもなく野外にさらし、小走りでかける。
歩む度小さめの形の良い胸が、上下に揺れていた。
思わず立ち止まり辺りを見回したが、僕以外に人は居らず、ラッキー…じゃない、所謂変質者――痴女ともいう――って奴かと気を引き締めた。
女は何かを口ずさむようにしているがいかんせん遠い。
もう少し彼女に近付こうと、音を立てずに忍びよる。
街灯に照らされる女の顔に何だか見覚えがあるような気がして、目を凝らした。
2、3メートル近付いたところで、彼女は気配に気がついたのかくるりとこちらを振り返った。
「あ……」
可愛かった。
控え目な体付きにぴったりな、目がくりっとした童顔。
きょとんとした目が僕をつらぬく。
しばらく見つめあったかと思えば、首を傾げるようにしてまた歩き出した。
「ねぇ!」
気がつくと僕は彼女に声を掛けていた。
「あ、あのさ、栗原さんじゃない?」
2回目に問い掛けた言葉に彼女はびくりと立ち止まった。
柔らかそうなおしりがぷるんと震える。
彼女は、僕が小学生の頃同じクラスにいた栗原という子に似ている…ような気がした。
たぶんこの時の僕は、笑いを堪えるような、なんとも微妙な顔をしていたに違いない。
上がる口角を必死で押えながら、もう一度栗原さんと呼び掛けた。
「なんで…私が見えるの?」
こちらに向き直った彼女のどこを見て良いかわからず、思わず目を逸らす。
「く、栗原さんだよね?何してんの?」
裸で――と後に続く言葉は飲み込んだ。
「本当に私がわかるの?」
彼女は真ん丸の瞳をさらに見開いて、眉を潜めた。
質問の意味がわからなくてうろたえる。
彼女は夢遊病か何かだろうか?
それともただ単に服を着忘れたか―――もしかして本物の露出狂?
いやいやだったらもっと僕を誘惑してもいいはずだ。
まさか新手のスポーツかな、なんかヌーディストビーチで流行ったヌードランニングとか。
でもだったら町中で裸の人を何人か見てもいいはずだけどまだ僕はお目にかかれていないわけで、というか今目の前にいるのがそうだとしたら初対面って言う事になるけどそんなニュース最近あっただろうか。
思考が目まぐるしく変わるのも構わずに、彼女は突然言った。
「伏せて!」
「えっ?!」
彼女がしゃがみ込んだのを合図に自分も体を低くする。
彼女の胸が中央に寄せられたのを横目に、一体何が起こったのかと目で問い掛ければ、彼女は口許に一差し指を立てしーっと呟いた。
「静かに。どこから見張られているかわからない」
「なっ、なっ、何なの?」
「本来私はこちらの人間とコンタクトはとれないし、あなたたちには私は認識出来ないはずなんだけど」
「に、認識?」
「ええ、私は未来から来たの」
「は?」
意味が分からず彼女をただ見つめるが、彼女は構わずにまくし立てる。
「どうしたのかしら、作動装置の具合が悪い?」
そう言って、腕の裏側を見つめる。
何が書いてあるのかと覗き見れば、そこにはマジックで時計のようなものが書かれていた。
「何?それ」
「悪いけどあなたに教えることはできないわ。既にあなたと接触してしまったことで何が起こるか予測できない」
「それってどういう…」
「良い?時間がないから簡単に説明するけど。過去は現在進行形で変化し続けているの」
「は?」
「タイムマシンの利用によって、多くの未来人が過去へ介入している」
「み、未来人?」
「ええ。明智光秀っているじゃない?あいつも未来人よ」
さも得意げに彼女は言い放つ。
脳内に明智光秀の顔を描こうとイメージしたが、織田信長の自画像しか蘇ってこなかった。
「…そんなわけ、ないじゃん」
ごくりと喉をならして、やっとの思いでそういえば、彼女に叩かれた。
「いたっ」
「そんなわけ、あるの!あんた達が認識できないだけで今もどんどん過去は変わっているのよ」
「じゃあ例えば、誰かが明智光秀の前に織田信長を殺したら?」
「そいつが教科書に載るわ、あなたの脳からは明智光秀の記憶が全て消える」
「まっさかー」
乾いた声で笑えば、彼女俺を睨みつける。
「まぁ今を生きる人間には到底理解できないでしょうけど、量子によって何の矛盾もないようにこの世界は変わっていくのよ」
彼女があんまり真剣に力説するもんだから、思わず納得しかけて冷や汗をかく。
「とにかく、一刻も早く研究所へ戻らなくては」
「えっ、研究所なんてあるの?
「当たり前でしょ。ここは木星から一番近い場所なんだから」
全く意味がわからなかったが、彼女の剣幕に押されとりあえず彼女の後をついていくことにした。
彼女は低い姿勢を保ったまま、辺りを注意深く見渡し少しずつ前進していく。
突然四つんばいになるんじゃないかと、後ろから見ていてとても冷や冷やした。
それくらい、彼女の行動は獣じみていた。
「…研究所はどこにあるの?」
恐る恐る尋ねれば、彼女はさっと後ろを振り返った。
「このことを誰かに話さないと約束できる?」
「え、ああ、うん」
彼女は僕を見据えると、何かを探るように目を細める。
「いいわ。教えてあげる」
そう言って公園の出口の方向を顎で指し示す。
「あそこが、研究所なの。タイムマシンも勿論あるわ」
公園を出たすぐまん前に、真っ白い建物が見える。
どうやらあれが彼女の言う研究所らしい。
窓はたくさんついているが全てカーテンで遮られており、中をうかがう事は出来なかった。どちらかといえば質素で言われなければ特に気にも留めない雰囲気の建物だった。
「僕もそこに言ったら過去にいけるのかな?」
過去にいけるなんて、ドラえもんの世界がもうそこまで来ている事は明白だ。しかし未来人が介入した結果が現在という事は、未来人が過去を変えてはいけないという法律は未来にはないらしい。だったら僕も過去に戻って変えたい出来事はいくつかある。
「ええ、いけるわ。でもダメ。来るべき日が来るまでは我慢なさい」
彼女はぴしゃりと言って、僕の頭をはたく。
不思議と嫌な気分はしない。
「君はさ、もう未来に帰っちゃうの?」
「そうよ。私のタイムトラベルは今日で終わり」
「また来る事はないの?」
僕の言葉に彼女は目を丸くすると、くすぐったそうに笑う。
「なぁに?私にまた会いたいわけ?」
「いや…まぁ…、うん、同級生だし」
「正確に言えばあなたと私は同級生ではないけれどまぁそういうことにしておいてあげるわ」
彼女は僕に目配せをすると、突然すくっと立ち上がった。
やはり目のやり場に困る。
「折角私に好意を持ってくれたみたいだけど、もう二度と会う事はないわ。というかあなたは私を記憶として留めておくことは出来ない。私と別れた瞬間に、私の記憶は消滅するでしょう。もしかしたらまた別の形で会うことになるかもね、最も、キミは覚えてないでしょうけど。私もそれなりに楽しかったわ。じゃあね」
彼女は一気にそう言って、僕に大きく手を振るとそのまま小走りで建物の中へ駆け込んで行った。
真っ白いおしりが揺れるのをぼんやり見つめながら、ゆっくりと“研究所”の近くまで歩みよる。
真っ白で無機質なその建物には、“あずさ精神科”と書かれていた。