short 3

□ひとりよがり
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泣く事も出来なかった

行方を眩ませていた衛士が還って来た
痛々しい傷があちこちに残っていたが、何故なのだろう、安らかな顔で
もうずっと見た事がない、優しい微笑みを衛士は口元に浮かべていた

「…衛士」

私の唇からぽつりとそれだけ零れたが、返事なんてもちろんなかった
いつも呼んでも返事もなくあの暗いぼうっとした瞳をこちらに向けるだけだったけれど、今はもうそれもない
その事が何も考えられない、考える事を放棄した私を強引に現実に引き戻して、それから私の唇から何かが零れ落ちる事はなかった

喉が胸が、ぎゅっとしまる
しまって、息が出来ない
酸素を求めようと唇が少し開いたけれど、空気を吸い込む事は出来なかった
そうすると目頭がじわっと熱くなって、衛士の顔が涙の形に歪んだ
そこでようやく息をした
大きく開いた口で、まるで水面に上昇して餌を求める魚みたいに、馬鹿みたいに
少しだけ涙は引っ込んで、そしてまた衛士が見えるようになる

「何か、言ってやれ」

私の横で私と同じくじっと衛士を見つめていた笛吹さんがようやくそれだけ言った
私は少し間をおいてから、ゆっくりとかぶりを振った

言ってやりたい事は山ほどあった
山ほどあるから、何から言えばいいのか分からない
言ってしまえば、衛士がもういない事が本当になってしまいそうで、何も言えなかった
いや、もう衛士はいないのだ
それをこうして目の当たりにしても、私も笛吹さんも認められないでいる

私の中の衛士への想いを言葉にしたら、涙という形にしてしまったら、それはもう私の中には戻らないだろう
そうして私の中の衛士が少しずつ戻らなくなったら、私は衛士の全てを本当に永遠に失ってしまう
衛士の残した優しさや、温かさや、虚しさや、そういったものに触れても何も感じなくなってしまう
それならば、私はこのどうしようもない痛みを抱えたままでいいと思った

「お前が何も言わないで、誰がこの馬鹿を叱ればいいんだ…」

笛吹さんの声は、最後は掠れてしまった
本当に馬鹿だ、馬鹿な男だ
そして私はこんな馬鹿な男を一生想っているのだろう

衛士、あなたは私から笑顔を奪ったあいつを殺すと言った
でも、私は、あなたがいないと泣く事すらも上手く出来ないよ


 

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