短編

□夕暮れの時間
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真剣に赤本と向き合って受験勉強と戦っている健。夕焼けのオレンジ色の光に照らされる彼の横顔は、可愛くて無邪気な子供の頃とは少し違う、大人で凛とした表情をしている。
この横顔を近くで見れるのは、あと何回あるだろう。


「……よし!帰るか、菜奈美!」


健はぱっと顔を上げて、清々しそうに私に言った。きっと思うように問題が解けたのだろう。
教室にはもう私と健しか残っていなくて、バッグに勉強道具を戻す音や椅子を引く音が、静かなオレンジ色の教室から廊下まで響く。


「健、熱心に勉強してたね?」

「うん、最近調子よくてさー。菜奈美はどう?」

「私もまあそれなりに」

「そっか。あ、帰りコンビニ寄ってかない?肉まん食べたくなってきちゃった」

「…健、」

「ん?」


沢山の机の間を縫うように歩いて扉に向かった健が、私を振り返った。
背も延びて、すっかり大人になった健。もう同級生と喧嘩をして、泣きながら私のところに駆け寄ってきた小学生は、そこにはいない。


「……健、」

「…なに?」

「ほんとに、東京行っちゃうの?」


東京にある大学の赤本しか持っていないことも、都心に一人暮らし用の物件を探していることも、全部知ってる。
だって、ずっと見てきたんだから。健のことを。健だけのことを。


「…行くよ」

「ここじゃ、だめなの?」

「東京に行きたいんだ」

「ここだっていいじゃない」

「昔からの夢だったんだよ」


知らない。知らないよ、そんな夢。
思いをぶつけたくて口を開いたけど、言葉より先に涙が溢れた。
滲んだ視界で、健がこっちに近付いてくるのが分かった。そして、大きな手のひらが、私の頭を撫でる。


「応援してくれるよな?菜奈美は、俺の夢」


そんなことを言われたら、首を横に振ることはできない。
ゆっくりと、ほんの少しだけ頷くと、頭の上の手がそっと下ろされた。


「俺もお前の夢、応援してるから」


顔を上げるとオレンジ色の健が滲んで見えて、その儚げで綺麗な姿に、胸の奥の方がぎゅっと締め付けられた。

この苦しさと愛しさが一生続けばいいのに。愛しさが、哀しさに変わらないように。






夕暮れの時間





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