長編
□05
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あの一件からずっと、頬の緩みが収まらない。
いつまでも恋愛に現を抜かしているわけにはいかないと分かっていても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
(…キス、したんだよ、な……)
何十回と繰り返した自問自答。
あの感触を確かめるように唇に手を当てるのも、もう何回目だろうか。
……変態か俺は。
(…俺が思ってる以上に惚れ込んでる、か……)
真紀さんが発した『愛してる』ばかりリピートされていた頭に、ふと吉良さんの言葉が過った。
…このままだと煩悩ばかりが増え続けてしまいそうである。
(…そう、なんだろうか)
自分では彼女に想われているだなんて、よく分からない。
昔の真紀さんなんてあまり覚えてもいないし、『変わった』なんて言われても、俺自身は彼女の昔との違いを感じることもない。
(…あれ、)
…俺の知らない真紀さんを、吉良さんや真紀さんの友人は知っている?
…そう思うと、急に不安になった。
思い返せば、俺は彼女のこと、何も知らない気がする。
生年月日、血液型、趣味、特技。
家族構成や、幼い頃のこと。
考えれば考えるほど、不思議なほどに知らないことは浮かんできた。
知っているのは精々、名前や家柄や年齢くらいなものだ。
好きなものだとか嫌いなものだとか、俺は、何も分からない――。
(…どうして、)
知らないんだろう。
聞こうと思えばいつでも聞けるような、単純なことばかりのはずなのに。
(…他の人は、知ってるんだろうか)
ざわざわっと胸騒ぎがした。
さっきまでの幸せな気分が嘘みたいに不安に変わっていく。
俺はこんなままで、彼氏だなんて、名乗れるのかな――……
『ピリリリリッ』
「ひゃっ!?」
唐突に響いた携帯着信音に思わず奇怪な声を上げてしまう。
はっと我に返って携帯のディスプレイを確認すると、そこには佐倉真紀の文字。
慌てて通話ボタンを押した。
「は、はいっ!!」
『ごめんね、寝てたかな?』
「い、いえっ…!!」
貴女のことを考えていて眠れませんでした、なんて何が何でも言えない。
自分でも子供すぎると自覚しているから。
『なんか、拓人くんの声が聞きたくなっちゃって』
「え、あっ…!」
俺のことを、考えていてくれた。
彼女の告げた事実が、胸騒ぎばかりを起こしていた不安だらけの心を浄化していく。
真紀さんの言葉ひとつにここまで喜怒哀楽するなんて。
「…俺も真紀さんと、話したかったんです」
『私と?』
「はい。真紀さんのこと、もっと知りたくて」
知らないなら、今から知っていけばいい。
あんなに後ろ向きだった気持ちが、自然と前を向いていく。
『…それはいいんだけど、私なんかのこと知っても面白くないよ?』
「…俺、考えてたんです。真紀さんのこと…何も知らないんだ、って」
だから、知りたい。
そんな単純な気持ち。
「だから、教えてほしいんです」
『…拓人くんが、それでいいなら』
今はまだできないけれど、いつか堂々と、彼女の恋人を名乗れるようになりたいから。
釣り合うように、なっていたいから。