イナズマ裏夢

□愛という言の根
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※南沢が中学2年、3年引退後頃のはなし

最初にその女性を記憶したのは、部活の後輩が、その隣に並んでいたからだ。神童拓人、1年ながら1軍のレギュラー、俺たち2年からの信頼も厚い誠実な後輩。そんなやつが部活終わり、家に帰るでもなく明らかに成人をしているであろう女性と、人気のない、小さな公園の駐車スペースで密会。興味が湧くのは自然なことだった。やっと街灯がともり始めた歩道に立ち止まって、彼等の様子をそっと窺う。2秒後、2人の間に口付けが交わされるなんて、知る由もなかった。

見てはいけないものを見てしまった気がして思わず走って帰ったその日から1週間、何故か部室のモニター前で久遠監督と話をするあの人に会った。2度目の遭遇だ。監督とその彼女に挨拶をして数分後には、監督は部室を出て行った。取り残されたのは俺と、彼女。「…きみ、この間、公園の駐車場にいた?」明確に俺に向けられた問いに肩が跳ねた。公園の、駐車場?心臓が嫌に騒いだ。おそるおそる、視線を上げると、彼女は困惑を覗かせ気まずげに唇を結び遊ばせていた。

「拓人くんとは、恋人同士とかじゃないから。わたしがこういうことに付き合わせてるだけで…彼は、きみの知る通りの子だよ」知る通り?付き合わせているだけ?よくもそんな言い訳が通じると思ったものだと、少し腹が煮える思いだった。あの一瞬、神童があんたに見せた表情を、俺は忘れない。神童はあんたを信頼して受け入れている。それを誤魔化されるほど、俺はあの後輩を他人にした覚えはない。「随分、無責任なんですね」突き立てるためだけのナイフを避けることもなく、彼女はそうだねと、苦しげに、笑った。腹の奥がどん、と、心臓のように振動する。言い過ぎだと、咄嗟に謝罪が口をついた。「…ふふ、優しいんだね」傷口を隠して、また彼女は笑った。

3度目にその姿を見たのはまた、あの駐車場だ。部室で会ったあの日から、1ヶ月が経っていた。「今日は由岐さんのところで世話になるから」神童がそう電話をする声が聞こえる距離だった。由岐さん。彼女の名前なのだろうか。正直にそれを身内に話しているということは、彼女は神童の親族にも信頼を置かれているのかもしれない。電話を切った神童がふと、落ち着きなく目を泳がせる。それに気付いた彼女は神童の頬に手の甲をあてて、「拓人くん」ひどく甘い声だった。俺に向けられたわけでもないそれに心臓がばくばくと激しく鼓動して、緊張のような焦りのような、じわじわと身体を染めるそれが耳を熱くした。こびり付いたそれに何度も焦がされる。思えばこのとき、俺はもう、戻れなくなっていたのだろう。

2週間後、また部室で、彼女に会った。水曜、俺のクラスが最も早く放課になる日だ。「あ、こんにちは」ちょうど久遠監督が部室を出るところだった。彼女の腕にはぎっしりと、分厚いファイルが収まっていた。「南沢くん、っていうんだね。資料見ちゃった」彼女の声で紡がれる名前に脈が早まり、今にも血管の浮きそうな腕がこそばゆい。じわり、と、火傷の跡にまた熱が滲む。「…神童とは、恋人じゃないって言ってましたよね」熱に押されるがまま、それを地面に落とす。あの日不誠実に言葉を濁す彼女に憤っていた俺は何だったのか、今ではそれに安心すら覚えている。「誰にでもするんですか、ああいうことも、」その先も。吐き出した舌が小さく痺れた。

「…そうだね、『望まれたなら』…っていうのは、無責任かな」
「……いないんですか、恋人とか」
「いないね」
「……中学生にまで手ェ出すんですね」
「ん、そうだね」
「……なんで、神童と?」
「それは答えられないな。…南沢くんさ」
「…なん、」
「言いたいことがあるなら南沢くんから言ってくれなきゃ、わたしからは絶対に『言えない』よ」

息が止まる。数秒たってやっとその意味を理解した身体に羞恥か焦りか怒りかも分からない熱が込み上げて言葉が出ない。「わたし、今日はこれからまだ仕事なんだ。だから、言いたくなったら連絡ちょうだい」手書きのメモを1枚机に置いて、彼女はまたねと、部室を出て行った。そのメモを財布から取り出したのは、それからまた、2週間後のことだった。

初めて訪れた彼女の部屋は、あまりに甘い匂いがした。身体に染みて取れなくなりそうな、気持ちが悪いほどに心地の良い、匂い。「南沢くん、ここにタクシー代置いておくから、いつでも逃げてね」俺を先に風呂に入らせて、パソコンを畳んだ彼女は、神崎さんは風呂に向かう。それは俺への『時間稼ぎ』なのだろうと、思う。逃げるくらいなら連絡なんてしない。この2週間、俺がどれだけ迷って悩んで出した結論だと思ってるんだ。先に案内されていた寝室に向かいそのダブルベッドに寝転がる。彼女の匂いが色濃くなるそこに、俺は、




「…おはよう、ございます」

おはよう、と彼女は笑った。あまりの居た堪れなさと情けなさ不甲斐なさ、何もかもに頭痛がした。「疲れてたんだよね、試合の後だもん」いや慰めはいらないからいっそ笑ってくれ。寝るか普通。これから事に及ぼうかというベッドで。何しに来たんだ俺は。子供か。寝るな。

「朝ごはん食べる?」
「…はい」
「和食と洋食」
「…和食?」
「んっふふ、女性に和食をねだるとは、分かってるね」
「な…なんなんですか」
「半分くらい作り置きになっちゃうけど、好きなの選んでね」
「…はあ」
「卵焼きは甘いの?しょっぱいの?」
「…しょっぱい方?」
「一緒だ」

ずらりと並ぶ『作り置き』から、バイキングのように少しずつ皿に盛り付ける。かぼちゃレンコン白和えきんぴら、この量いつ作っていつ食べるんだ。「たまに忍び込んで冷蔵庫漁って帰るだけのやつがいるんだよね」言いたいことは通じていたのか、フライパンに卵を流し込む音に混ぜて彼女は困ったものだと笑う。その口ぶりからすると知り合い、なのだろう。多分。いや知り合いじゃなかったら怖いだろ今のは。

卵焼きと米と味噌汁を受け取って、彼女が前に座ったところで手を合わせる。「いただきます」なにもない休日の朝からちゃんとした食事をとるのは久しぶりかもしれない。会話もなくテレビの類もついていない、静かな食卓。それほど気まずいわけではない、が、どうにも心の内では会話を探してしまう、「…うまい」無意識にこぼれ落ちたそれにはっと口を閉ざす。いや、料理の感想を躊躇うことも、ないとは思うんだが。「嬉しい、ありがとう」人の為の言葉が、すらすら出てくる人だと思う。ほんの少し浮ついた空気に、身体が軽くなるように感じた。

皿洗いくらい引き受けると言ったのだが、彼女は俺よりも少しだけ早く食べ終わり先に流し台の前に立つ。「みっつくらい、一緒だよ」自分の分だけを洗うつもりでもなかったのだが、流れるような気の使い方に気付かず流される方が、まだ可愛げがあるだろうか。「…お願い、します」その代わりに俺はテレビをつけるという指令を受けた。それも多分、手持ち無沙汰な俺を気遣って、なのだろうけど。

ソファを借りてテレビをつける。窓から差し込む朝日が温く、眠気を誘う。いや待てどれだけ寝る気だ俺は。けれどたいした興味もないバラエティ番組のグルメリポートと流し台に落ちる水音は、だんだんと遠退く。まずい。寝て飯食べて腹がいっぱいになったらまた眠いって子供かよ。「ふふふ、おやすみ?」耳に心地のいいそれが聞こえる頃には半分意識が落ちていた。慌てて身体に力を入れ直す。「寝てもいいのに」人を甘やかすことに慣れすぎじゃないのか。洗い物を終えたらしい彼女は『友人』らしい距離で、俺の隣に座った。

「…昨日はその、…ベッド占領してすみませんでした」
「ちゃんと眠れた?」
「……まあ、はい」
「ふふふ、それは良かった。…南沢くんさ」
「はい」
「こんな関係でもいいんだよ。泊まりに来てくれたり、ご飯食べに行ったり。大人は有効に活用すべきだよ」
「…それ、は」
「わたしでよかったら、いくらでも利用してよ」
「…カウンセラーみたいですね」
「えっそう?」
「…そんなお人好しじゃ、つけ込まれますよ」
「ふふ、わたし、人を観るの得意なんだよね。こんなこと言う相手は、ちゃんと見極めてるよ」

彼女の言葉のすべてに、身体が浮かされるように感じる。このままでいいと、それは彼女の本心だと、甘えたくなる。けれど俺はまだ、『言いたくなったこと』を、伝えていない。あの日神童に触れた指に、声に、俺は。「…神童にしてるようなこと、誰にでも、するんですよね」彼女は静かに、その端正な顔立ちに肯定を浮かべる。2週間、迷った。一時の気の迷いなんじゃないか、これ以上彼女の『不誠実さ』を知る必要はないんじゃないか。好きでもない人と、まだ知り合って間もないような人と、『そういう』関係を築くような、不純で成熟した歳でもないだろう、と。

それでも、この人に近付きたいと、情欲のこもる声で名前を呼ばれたいと、焦がされた俺は、もう。「なら、俺でも、いいですよね」上手い言葉を探していたはずだった。もう少し大人びた、冷然で淡々とした文面を考えていたはずだった。あるいは昨日の夜なら言えたかもしれない。けれどもう、幾らでも募るこの甘ったるい熱に、無感情を気取ることはできない。「…やめたくなったら、ちゃんと言ってね」言い訳じみた誘い文句しか紡げない俺のそれと、最後の瞬間を愛しむように歪む彼女の唇が、重なった。
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