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ネタのメモ。
ほんとうにメモ。
◆no title 


剣城優一とこれからのはなし

「***先生、今日は、もう少しいてくれませんか」彼の家庭教師を始めたのは、わたしが成人をして間もない頃のことだ。優しく誠実で頭も良い、穏やかな男の子。そんな彼に、はじめて『わがまま』を言われたのは、出会って5年目の梅雨の頃だった。

家庭教師期間を終えた後も、お見舞いに来て勉強を見ていたこともあって、未だにわたしは『***先生』だ。ギラギラしていた頃の京介くんに一度見つかって、出禁を言い渡されたこともあったけれど、なんだかんだで今は元通り。なんにも変わらない、『元通り』の、はずだったのに。「俺も…***先生に、京介にするようなことを……教わり、たくて」京介くんにするようなこと。心臓がいやに跳ねた。

「なんの、」こと。あと二文字が続かない。切なげに顰められた眉と、柔く引き結ばれた唇に、早々に諦めが湧いてしまう。どこから漏れたのかは分からないが、優一くんはおそらく『全部』、知っている。誤魔化しがきく段階じゃない。いつだって聡明で慎重な彼は、それが確信になるまで、待っていたのだろうから。

興味が湧く年頃だというのは分かる。ましてうら若き青春の中学、高校時代をこの病院で過ごすしかなかった17、8の青年だ。そうして目の前にいるのはあまりに手が早く尻の軽い痴女。誠実さを纏う、欲の権化のような、女だ。「だめだよ」だめだ。きみはちゃんと、恋という感情を知るべきだよ。青春の穴を欲なんかで埋めるのは、虚しく、浅ましい行為だ。わたしが言えた義理も、ないのだろうけれど。

「…いやです」それでも優一くんは、『わがまま』を折らない。「俺じゃ、嫌ですか」嫌じゃないよ。嫌じゃないけど、怖いんだ。わたしがきみの空白を、埋めてしまうことが。「お願いします。俺の中に何を『残す』のかは、ちゃんと、自分で決めます、から」ああ、そう言うと思っていた。きみは賢いから。そう言われると、覆せはしないと分かっていた。きみのそれは焦燥ではないことも、分かって、いたから。

「本当に、わたしでいいの」
「……***さんが、いいんです」
「それが、わたしの中で、何の意味も持たなくても?」
「…はい」
「結局それは、空白でしかないよ」
「分かってます」
「…だめな大人に、させないでほしいんだけど、な」
「……5年、『良い子』で、いたんです」
「…そっか。うん、そうだね。そうだよね。ずるくて、ごめんね」

『良い子』の優一くんはまた、苦しげに笑った。きみにずっとそんな表情を隠させていたんだから、もう、わたしも、わたしの薄汚い意地を貼り付けているわけにはいかない。「わたしが『答え』を出しても、きみは」「変わりません。長引かせた***先生が、悪いんです」ああ、そうだね。きみはやっぱり、哀しいくらい、賢い子だ。

これ以上、野暮なことは言わない。二度と、それに触れることもない。分かるよ、それが優しく誠実で頭の良い、きみの精一杯のわがままなんだよね。誤魔化せるような大きさでもないそれを、痛くて、苦しくて、苦い感情にしてしまったのは。「…叱って、ほしかったんだけどな」カーテンを引く。誰からも、2人の逢瀬が咎められぬように。それがたったひとつ、『秘密』という名でわたしたちを括ってしまえる術だから。「…もう、遅いですよ」そうだね、ごめんね。きみの罪まで、わたしが食い尽くしてしまえたら良かったのに、ね。


「でも、今日はキスだけね」
「え…」
「分かってるでしょう。続きは、足が治ったら、ね」
「…はい」

2019/04/16(Tue) 04:57

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