中国へ密入国した「朝鮮花嫁」の苦難に満ちた経歴

中国東北地方長白山脈一帯には中国へ不法入国した多くの北朝鮮人女性が密かに潜伏しており、生活の困窮に耐えかねて祖国を捨てた彼女らを国際社会では通常「朝鮮花嫁」と呼んでいる。2003年10月中国の国慶節に記者は取材で長白山脈の奥地に潜入し、前後三回にわたり中国への密入国を繰り返し、二度北朝鮮に送還された経歴を持つ北朝鮮人女性にインタビューする機会を得た。金順姫と名乗るこの女性の話によれば彼女の故郷の十分の一に当たる女性が生計を立てる為に中国へ来たことがあり、彼女らのほとんどが嘗て北朝鮮で政府による高等教育を受けたことがあるという。彼女は「(北朝鮮で)教養のない人々は危険を犯して中国へ亡命する勇気や能力さえも持ち合わせていない」と語る。
長白山脈の寒村にある朝鮮族のキリスト教会で北朝鮮籍の金順姫氏は自分自身の過去7年間の経歴について語ってくれた。

1、凍てつく鴨緑江に沿ってひたすら西へ彼女は現在の中国人の夫に嫁いでから眉毛への刺青を行ったという。これは中国人女性の趣味嗜好の一つであり、彼女にとって眉毛の刺青を行うことは、小村の群衆の中に溶け込み、彼女自身の身分を隠蔽する手段でもあるのだ。36歳の金順姫氏は三度中国への越境を行い、その内、(中国側)国境警備隊によって二度(北へ)送還された経歴を持つ。今回(三回目)の越境は六ヶ月前であり、即ち2003年の春に三度目の脱北を図り吉林省長白山脈地域のキリスト教会の幇助を得て二歳年上の炭坑夫に嫁いだ。この炭坑夫は中国における彼女の二番目の夫になる。「私はすでに中国吉林省の戸籍と身分証を獲得した」と話す金順姫氏の標準語は鴨緑江を超えて来たという疑念を誰にも抱かせないほどに流暢で、現地の中国人の話す中国語と何ら大差を感じさせない。彼女は7年間に亘る艱難を極めた中国での生活が徹底的に彼女を中国の「東北人」へと鍛え上げて行ったと語る。7年前の冬、北朝鮮中部の都市にある鉄道病院で看護婦をしていた彼女は解雇された後、三人の面識のない北朝鮮人女性と共に朝鮮中部の故郷から乞食同然で一路鴨緑江を目指し、凍りついた河に沿って中国に逃れついた。「私達は始め現在位置が中国なのか朝鮮なのか分からなかったが、現地の人の話す言語が聞き取れないことに気が付き、始めて中国国内であることを知った」と話す。彼女らは国境の村で中国朝鮮族の居留民達から(中国側)国境警備の武装警察に捕まれば北朝鮮に強制送還されると聞かされた。彼女らはもし北に再び送られれば極刑に処される可能性があることを十分熟知していた。そこで彼女らは冬には気温が通常零下数十度にまで落ち込む長白山の山中に身を潜め、夜は猛獣から身を守る為に積雪の中草むらに身を隠し過ごしたという。その後彼女らの中二名は山で凍死し、もう一名も手足に重い凍傷を負ったそうである。金順姫氏も自分の手を見せて当時の凍傷で蒙った生々しい傷跡を見せてくれた。金順姫氏と生き残ったもう一人の同僚は長白山の小道に沿って中国内地へと進んだ。長白山一帯は人口も少なく、一日歩いても村に辿り着ける事は稀であり、当然如何に飢餓を脱するかが避け難い難題であった。飢餓の極限状態の中、長白山の山林地域で働く林業労働者が持ち合わせた僅かな食料で、彼女らは何とか命を繋いだ。数日後彼女らはある村に辿り着いた。そこは中朝国境から、直線距離では僅か数十キロしか離れていない地点であるが、もし連なる山々を迂回して正規の国道に沿って進んだ場合国境から300キロ近くにもなる距離である。そこは長白山周辺にある唯一の炭鉱地区であり、大小多くの炭坑が山々に遍在しており、炭坑の周囲には小規模の村落が形成されていて、全国各地から集まる炭坑夫と土着の住民達が混在しながら、その地域の人文的特色を醸し出している。金順姫氏ともう一人の同僚はこの炭坑村に落ち着くことを決め、まずは職探しから始めた。ちなみに金順姫氏の一番目の夫とはこの炭坑村で出会い結婚したという。

2、一回目の送還:人民元10元で北朝鮮兵士を買収

彼女の一番目の中国の夫は炭坑夫であった。結婚仲介人は近くの朝鮮族の村の教会の年老いた修道女であった。「重い運命を背負った姉妹である。この姉妹を出来る限り救ってあげたい。」記者が金順姫氏へのインタビューを試みた時、この年老いた修道女は金氏の凍傷で焼け爛れた手を擦りながらそう語った。その老女の満面の愛意によって小さい礼拝堂が温かさで包まれる思いであった。その老修道女は「ここ数年来北朝鮮の多くの姉妹が食べ物を求めてやってくる。私達も全て助けることは出来ないが、彼女らに旅費をあげたり、食糧を施したりして、彼女らがこの辺境地帯から中国の内地へと逃げられるようにいろいろ取り計らっている」と言う。また姉妹に配偶者の紹介をすることもあると言っていた。彼女の炭坑夫をしていた一番目の夫は賭博常習者であった。賭博好きの夫の性癖が祟り、日々の生活は困窮を極めた。1年ほど生活を共にして、彼女はこの夫の下を去り、長白山の山腹にある林業労働者達によって形成された集団居住区へと移った。
1997年春、生計を立てる為に金順姫氏は一番目の夫の下に居た時に密かに貯めておいた僅かな金銭で朝鮮漬物の商売を始めた。林業区には多くの朝鮮族が生活しており、彼女の商売も朝鮮族の同胞達の助けを借りながら、比較的順調に進み、自分の生活を維持する以外に、貯金をする余裕も生まれた。彼女は稼いだ金銭を北朝鮮の実家に送るつもりであった。彼女の朝鮮の実家には工場で運転手をしていた朝鮮人の夫と子供が居た。「もう子供は9歳になるはずです。」と子供の事に言及すると彼女は泣き崩れた。朝鮮の実家を離れてから、一度も子供には会っていない。子供に関する消息は後に二度北朝鮮に送還された時に、知り合いから人づてに聞くことになる。
しかし朝鮮漬物の商売は決して彼女に安定した生活環境を与えてはくれなかった。一年後炭坑夫であった元夫はどこからか彼女が商売をはじめたという消息を耳にして、賭博用のかけ金をせびりにやって来たという。彼女はこの元夫の要求を拒否したが、彼女から賭博に使う金を手に入れることの出来なかった元夫は長白山国境警備の武装警察に彼女を密告した。中国の国境警備隊本部はすぐに動き出し、彼女を吉林省の辺境都市へと連行した。そこには朝鮮人脱北者を監禁する拘置所がある。数日後金順姫氏は北朝鮮側の国境警備所へ引き渡された。中国側拘置所を離れる前に、彼女は人民元10元札5枚を丸めてビニールの小袋に入れ飲み込んで胃の中に隠し、密かに朝鮮へ持ち込んだ。彼女は「これは多くの北朝鮮人が使う手法であり、このようにして始めて当局の検閲を掻い潜り人民元を北へ持ち込める」と言う。人民元さえあれば北朝鮮国内においても様々な難関を通過する事が出来るという。北朝鮮側の監獄で国境警備隊は三日間金順姫氏の身分を調査し、彼女の状況を彼女の元実家と以前勤務していた病院のリーダーへ通報し、毎日一回ずつ取調べを行い、毎回中国で何を話したか、何をしたか等の詰問を繰り返した。取調べを行った審査官は北朝鮮の法律では送還一度目は労働改造所での服役が一年で、二度目は三年、三度目に送還されれば五年である事を彼女に告げた。また審査官の口から彼女は自分の夫がロシアへ貨物運搬中に事故死した事、子供はその後父方の祖父母の元に引き取られた事等を知らされた。取調べ期間終了後、彼女は中国から北へ送還された別の脱北犯達と共にトラックに押し込められ、朝鮮北部の労働農場へと連行された。その途上で彼女は中国境内で飲み込んで体内に隠し持っておいた50元を取り出し、その内の一枚を横にいた北朝鮮人民軍兵士に密かに手渡した。金順姫氏はその場で釈放され、トラックから一人降ろされたという。しかし彼女の足は再び北朝鮮国内へは向かわなかった。国内には実家があり、子供も親族もいる。しかし食料がない。彼女を護送してきたトラックが過ぎ去るのを見とどけて、彼女は再び身を翻し一路鴨緑江を目指した。

3、二回目の送還:嘗て司法官をしていた父と娘

1999年初、金順姫は再び越境し中国への密入国を果たす。一度不法入国の経験があったおかげで、二度目は非常に順調に越境できたという。今回は中国朝鮮族が密集する吉林省延辺自治州の村落付近の河岸から上陸を試みた。ここから鉄道沿いに西へと向かえば人口稠密な場所へと出られる。前回通過した人気の少ない森林地帯と比べ物乞いするのにも然して困難ではない。また一回目越境時の中国境内における二年に及ぶ生活経験により、金順姫は中国東北地方の生活習慣や言語に対してかなりの程度熟知していた。朝鮮族の密集した場所でなくても、彼女は基本的に漢族との意思疎通を自由にこなせる様になっていた。実際西へと向かう路上で彼女を脱北者と疑う者は一人もいなかったという。彼女はこの時森林地域の小村へは戻らなかった。確かにそこでの生活自体は成り立つかもしれない。しかし現地の人は皆彼女が北朝鮮出身である事を知ってしまっている。「再び密告されるかもしれない。」彼女にとって身の安全を図る事こそが最大の問題であった。今回も前回同様あの老修道女が彼女を助けてくれた。彼女が延辺で電話した時、その善良な老修道女はハルピンへ行き、ある養鶏場の責任者を訪ねるように勧めてくれた。延辺から黒龍江省のハルピンまで金順姫氏は一路物乞いをしながら徒歩で向かい、年初に出発し北方の天気が徐々に暖気を帯びる頃、漸くその養鶏場に辿り着いた。そこの主人は気前の良い人で、彼女を引き取り養鶏の仕事をあてがってくれて、食事と宿泊場所以外に毎月500元の給料を支給してくれるのだった。「私は今でもあの主人に感謝してます。」金順姫氏は彼は以前に出会った老修道女と同じくらい善良な人であった語る。彼女は2001年の秋までこのハルピンの養鶏場での仕事に従事する事になる。この時期は彼女の生活が比較的安定した時期であり、再び飢餓によって苦しむ事もなかった。しかし一人でいる時は子供や故郷、両親、死んだ夫の事等が常に頭をよぎった。この期間数人の中国人の助けを得て、彼女は吉林省のある場所で戸籍と合法的な居留身分証を取得するが、公的な場所では依然として自分の身分を明かす事は出来なかった。彼女が中国の居留身分証を取得した約一ヵ月後、同じ養鶏場で貨物の運搬作業に従事していたトラック運転手が再び彼女を黒龍江省国境警備隊本部へ密告した。その後彼女は再び北へ送還される。今回も一回目送還時と同じ方法で250人民元を体内に隠し持って行った。彼女は北朝鮮の法院で朝鮮北部の監獄農場で三年の強制労働に従事する判決を言い渡され、北朝鮮国内における戸籍が政府によって取り消された事も同時に通告された。彼女は「服役中は外国から北朝鮮にもたらされる支援用食糧品の運搬が主な仕事であった」と語ってくれた。監獄内の囚人には彼女のように中国から強制送還された脱北犯以外に、政治犯もいたと言う。また「毎日重労働を課せられ、与えられる食糧はトウモロコシと大豆の粉で作った小さい饅頭が一つと食塩水一杯だけであった」と語る。ひどい飢餓と看守人からの拷問で死んでいく人が後を立たたず、「労働場所で坑を掘り、死亡した多くの囚人達を埋めた」と泣きながら語ってくれた。金順姫氏が監獄に送られた後、彼女の家族の者が人を通じて釈放してもらえるように当局へ頼んだと言う。彼女の父親は元司法官で、政府内にも友人がいた。金順姫氏は刑期満了後出所を許された同郷の囚人の一人に250人民元を持たせ、彼女の父親はこの金で朝鮮政府の要人に賄賂を送り、2002年10月に彼女は釈放された。出獄後、彼女は両親の元に戻った。子供と死亡した夫の両親は彼女との親族関係を法律上すでに放棄しており、北朝鮮国内の別の場所はもとより、子供と夫の実家に行くことさえも当局から固く禁じられた。彼女は戸籍も取り消され、仕事もなく、従って北朝鮮政府が人頭分配で行う食糧配給も法律上受けられなくなっていた。父親はこの年72歳で、地方法院を定年退職後、定期的に政府から退職手当を受け取っていたが、一家を養うには全然足りなかった。彼女は父親から泣きながら「お前を養ってやる事が出来ない」と告げられ、彼女は以前働いていた鉄道病院へ赴き、そこの責任者に復職を願い出たが、中国への不法越境を行った者は一律解雇すると言い渡され拒絶されたという。

4、三度目の越境:善良な養鶏場の主人と500元の賄賂

 2003年2月、鴨緑江がまだ解氷してない頃、彼女の心がまた動いた。親の実家で餓死するのをただ呆然と待つより、もう一度越境を試みる事を決意したのである。実家から鴨緑江の岸辺まで最も早い移動手段は汽車であるが、政府の紹介状がなければ北朝鮮では乗車券を買う事も出来ない。この時以前鉄道病院で看護婦をしていた経歴が彼女を救った。彼女は旧知の鉄道局職員を探し、1000北朝鮮ウォンをあげて乗車券を手に入れ、二日後鴨緑江の川辺の町「会寧」に到着する。しかしこの時鴨緑江は北朝鮮人民軍によって厳重に封鎖されており、中国への密航はほとんど不可能であった。彼女は会寧に数日滞在し、毎日町を徘徊しながら、越境の機会を待ち続けた。ある日彼女は数名の中国人に会寧の街中で偶然出会い、携帯電話を借りて中国国内に電話をかけさせてもらえる様に懇願した。その内の一人が同意して、彼女はその中国人の携帯で以前約二年半の間ハルピンで自分を養ってくれたあの養鶏場の主人に電話する。その主人は電話を受けた二日後、会寧と国境を接する中国側吉林省龍井市に駆けつけ、自らの訪朝手続きをする。その主人の北朝鮮到着を待って、二人は会寧の朝鮮人民軍を訪ね、軍部高官二人に200元ずつ賄賂を渡し、前哨屯所の人民軍兵士一人に100元の賄賂を手渡して、朝鮮側国境警備所の許可を得て、彼女は三度目の中国への越境に成功する。
三度目の越境後しばらくして彼女は一度目の密入国時に自分を救ってくれたあの老修道女のいるキリスト教会へと再び足を運んだ。今回の彼女へのインタビューはその時に行われたものである。「彼女にとって最も安全な方法はやはり中国人の配偶者を見つけてあげる事である」とその修道女は言う。2003年4月金順姫氏は二人目の中国の夫に出会った。二人目の夫も同じく炭坑夫で、酒に酔うと彼女に対し「朝鮮から逃げてきた女だ」と所構わず怒鳴り散らすほど酒癖の悪い男だと言う。現在の夫の事を尋ねると、彼女は涙ぐみながら「何度分かれようと思ったか知れません。しかし夫の家族の方々がよくしてくれるし、自分を養ってくれる」と語る。その厳しい運命の現実は彼女に選択の自由を与えてはくれない。
更に深刻な問題は彼女自身これからどこへ行って、また何をすれば良いのか、将来に対し何ら明確な希望を見出せない事である。祖国と故郷は進めば進むほど遠のいて行く。しかし前途には何の具体的目標も見えてはこない。「生きてさえいればきっと良い事がある」と言って慰める老修道女の隣で彼女は満面の涙を浮かべ、終には礼拝堂内の土坑にうつ伏せて泣いた。彼女のすすり泣く声が小さい礼拝堂いっぱいに満ちた。
「朝鮮花嫁」の中国東北部における広範な存在に対して、非政府筋ではいろいろな見方がある。一体どれくらいの北朝鮮人女性が生命の危険を冒して鴨緑江を越え無数の中国人家庭へと流入しているのか、正確な数字はまだない。しかし中国における「朝鮮花嫁」の存在はすでに疑う余地のない事実である。推定数万人とも目される北朝鮮人女性が中国で摘発され北へと送還された後、彼女らと中国人の夫との間に出来た中国国内に取り残される子供達の存在もまた大きな社会問題として浮上しつつある。Wayabroad.com 出国之路より,(http://www2.wayabroad.com/a/93802.html)




金日成急死の内幕

1994年6月朝鮮半島情勢が突如緊張し始めた事についてはご存じの方も多いと思う。原因はアメリカが北朝鮮の行った核実験を非難し、無条件で国際原子力機構の特派人員による査察を受け入れるよう北朝鮮政府に勧告し、もし査察官の入国を拒否すれば、アメリカは関係各国と連合して北朝鮮に対し厳しい制裁措置を採る旨を国際社会に表明したからである。
金日成は硝煙弾雨の激戦の中を生き抜いてきた人物である。アメリカのから脅しに対しては、虫けらを払い落とすが如く軽く一蹴した。クリントン前アメリカ大統領がイギリス、フランス等に呼びかけ、連合して北朝鮮をアメリカ主導の政策に従わせようとした時も、彼は朝鮮人民軍による日本海へのミサイル発射という態度で対応した。この時発射されたミサイルは改良型の通常ミサイルであり、一般に恐れられている「労働1号」ではなかった。この行動は強硬手段に対しては強硬手段で対応するという金日成の対米姿勢をただ一般に表明したものに過ぎない。
国際社会が憂慮の眼差しで金日成の一挙手一投足を注視していた頃、アメリカのアジア問題専門家であるハリソンが平壌を訪問し、6月9日には金日成と会談した。この時金日成は既に82歳の高齢に達していたが、ハリソンは彼と対面した時、血色も良く、声色も堂々としており、背はやや小柄だが非常に壮健で精力旺盛な中年男性との印象を受けたという。ハリソンを更に驚かせたのは金日成が決して彼が嘗て想像していたような好戦的且つ頑迷固陋な人物ではなく、機知と柔軟性に頗る富んだ外交家としての才能を多分に持ち合わせた人物だという点であった。金氏はハリソンに対しアメリカが外交上北朝鮮の地位を承認する等の立場表明を行えば核開発計画を全面凍結する用意がある事をまず告げた。また金氏はこの時非常に興味深い提言を行っている。即ち北朝鮮が核兵器開発を行うのは完全に自己防衛の為であり、アメリカが軽水原子炉を提供してくれれば朝鮮側核兵器の早期生産が可能になり、逆にそれにより朝鮮半島の安全が保証されるというのだ。ハリソンは金日成との談話を通じて金氏は核兵器の問題で武力行動をとる事を望んでいるのではなく、逆に欧米諸国との意思疎通と相互理解を強化したい意向を持っているという情報を得た。会見終了後、彼はこの情報を直ちに米国国務院に知らせた。ハリソンの情報を得た直後、米国国務院スポークスマンは前大統領カーターの北朝鮮訪問プランを正式に内外に公表したのである。
6月12日カーターは大韓民国の民用機でまずソウルへ向かった。米朝間に外交関係がないまま、カーターは韓国側から停戦ラインを越え北朝鮮側に入った。北朝鮮外交部副部長が停戦ラインの北側で迎接し、平壌までカーターを護送した。ソウルから停戦ラインまでは駐韓米国大使ラニーが随行した。カーターがアメリカを発った時、朝鮮の核危機が突然変化する。6月13日、北朝鮮政府は国際原子力機構からの即時脱退を表明し、もし核施設の査察を受け入れないことを理由にアメリカが制裁措置を発動するというなら、戦争も辞さないという強硬姿勢を内外に表明した。日本海へのミサイル発射直後という事もあり、当時金日成のこの態度を強ち戯言と見るものは誰もいなかった。自然災害の影響により、食糧危機に陥ってはいたが、北朝鮮政府は人民軍の武器、装備品の更新速度を決して緩めてはいなかったからである。また米韓両国を驚愕させたのは北朝鮮軍の武器装備も然ることながら、北朝鮮兵の昂揚たる士気と闘志であった。以前韓国軍が国内に破壊工作の為侵入した三名の北朝鮮軍人を追討したことがあった。この三名の兵士に対処する為、韓国側は重装備の兵士3000名を出動させ、ヘリコプターまで配備するという大騒動であった。険悪な状況の中でも、三名の北朝鮮軍人は武器を差し出し投降する気配などは全く見せず、果敢に追撃をかわし韓国側重囲の突破を試みる。内二名はその場で射殺され壮烈な死を遂げたが、残り一名は無事に北朝鮮に帰っている。
カーターはアメリカ政界の要人同様、金日成の一挙一動を一方で見守りつつ、もう一方で中国政府の出方を注意深く窺っていた。6月9日午前10時、中国外交部長銭其?は北京で韓国外務部長韓昇洲と会談し、韓国側は中国政府が国連常任理事国として北朝鮮への制裁措置を支持することを希望したが、中国側によって厳しく拒絶される。しかし一方で銭外相は朝鮮半島の非核化と平和安定を維持する必要性を説き、朝鮮の核兵器開発に伴う危機的状況は交渉による不断の外交努力によってのみ回避できるとの立場を表明した。これは外交的判断から出たものであるというよりは、改革開放政策を重視する中国にとって朝鮮半島の政治的、軍事的緊張を可能な限り回避したいという趨勢から出たものである事は疑う余地が無い。
これより三年ほど前の1991年10月金日成は中国を訪問し、……、楊尚昆と会談し、ケ小平も旧同志の身分でその会見に参加した。その時金日成は「ソ連邦が解体し、東欧諸国もそれぞれ政治体制の転向を余儀なくされる中、アメリカが湾岸戦争の余勢に乗じ、残存する社会主義国家に対し自国への従属化を迫ってくる可能性は決して否定し得ない。その際中国には国際共産主義運動のリーダーとしての責任を果たす義務があり、アメリカと対峙し、同時に北朝鮮の弾道ミサイル開発を全面的に支援するべきである」との考えを示した。……は金日成の提言に対し「中国は北朝鮮が望むような(共産主義陣営の)リーダー役は絶対引き受けない」ことを告知したという。中国側は「経済発展こそ現在の急務であり、世界が多様化した時代に入ってきている中で、アメリカも好き勝手には行動出来ない。しかし北朝鮮がもし軍事的脅威に晒されるような事があれば、中国は決して座視してはいない。その時は北朝鮮の自己防衛の為の武器開発を支援するであろう」といった趣旨を述べた。この時の会見で金日成は年齢の関係から近いうちに政治の第一線を退き、息子の金正日に北朝鮮の指導権を譲る事を中国側に示唆していた。
 6月16日、北朝鮮訪問中のカーターは平壌で金日成と会見する。金日成は今回の会談に大きな期待を掛けており、情熱を込めてカーターと抱擁しあい熱烈歓迎の意を表した。しかし会見に参席した北朝鮮側高官の中に息子金正日の姿を確認することは出来なかった。彼は体調不良で欠席とのことであった。この時カーターが齎した知らせに金日成は驚喜した。韓国側が金日成をソウルに招待し南北首脳会談を実現させたいというのだ。生きているうちに数十年ぶりのソウルに赴き、分断後初めての南北首脳会談を自ら実現して、朝鮮半島の平和統一の過程を促進し、自分の名を歴史に残そうとの思いが頭をよぎったに違いない。金日成はすぐさま朝鮮政務院総理姜成山にこの歴史的会談の実現に向けて準備を整えるよう指示を下した。姜成山は元々北朝鮮で副総理を歴任した人物であったが、嘗て金日成に諫言した事が原因で降職処分を受け、地方の農業管理部の書記に左遷された経歴を持つ。ある時金日成が地方の農村を視察中、その土地の農業管理が非常に行届いている事から、管理責任者が誰か質問したところ、以前自分が追い出した姜成山であったという。金日成は喜びを禁じ得ず、再び彼を中央政府高官に抜擢した。その姜成山は従来金日成の指示を疾風の如く遂行してきた実力派であった。今回も彼は首脳会談参席者の名簿を直ちに作成し、韓国政府と連絡を取り、6月28日には板門店で韓国側閣僚と預備会議に踏み切った。
 カーターとの会談を通じて、金日成はアメリカが以前ほど専横且つ高圧的ではなく、武力で朝鮮半島の核危機を解決する事を望んではいないという印象を強く受けた。彼は感慨深げに「平壌とワシントンの間に横たわっているのは信頼の危機であり、欠けているのは相互間の信頼関係である」と述べ、カーターも時機を失せず言を継いで「自分の今回の訪朝はその信頼関係を構築するための歴史的第一歩である」ことを強調した。カーターは平壌に三日滞在し、毎日金日成と会談を行い、最終日の会談は視察及び宴席も含めて前後6時間にも上ったという。その間金日成の夫人の金聖愛は健康への配慮から彼に自重するように再三促したが、興奮状態に陥っていた金日成は全く聞く耳を持たず、普段どおり一日十数時間の公務をこなし、昼は会談に参加し、夜は文書整理に専念した。朝鮮政府の党幹部達は彼の旺盛な精力に困惑し、彼の実際の年齢を忘れるほどであったという。
 カーター帰国後、金日成は南北首脳会談の一切の配置を自ら指揮し、毎日立案作業に専念し、クリントンとの交渉内容についての修正を行い、南北首脳会談の方案内容を審議した。それら一連の準備作業が緒に就くと休む間もなく農村視察を行った。
 数年来北朝鮮の農業は各地で餓死者を出すほどの凶作続きで、地方の農務責任者達は農村の実情を中央政府に如実に報告するのを躊躇った。夏の収穫期であったという事もあり、各地方から中央へ虚偽の報告が相次いだ。金日成は農村の実情を自らの目で確かめる為耕地に赴き作物の生産状況を調査してまわったが、何処も彼処も農作物の収穫量は僅少で耕地のほとんどが一面の雑草で覆われた荒地同様の有様であった。道委員会から農作物の生産計画を予定通り完成できなかった事を知らされた時は金日成も怒りをあらわにしたが、実際に荒れ果てた耕地を目にした時は、さすがに言葉を失った。また彼は視察した農村で荒廃しきったボロボロの家屋や全身痩せこけた老若男女を直に目にした時、溜め息交じりの震えた声で思わずその心境を吐露したという。「我々が当時革命に参加した時、農村の状況は今と大差なかった。しかしこんなに長い期間革命に身を投じてきたにもかかわらず、農村は今でもこんなに貧しい。何故なのか。何がいけなかったのか。革命の目的は労働人民を救済する事であったのに、私の指導が間違っていたというのか。」ここまで言い終えると、金日成は思わず嗚咽を漏らした。すると金日成に随伴していた他の視察官、護衛官や現地の農村の幹部達までもが皆共に咽び泣いた。道委員会書記は農村管理の責任者として金日成の前に跪き自らの処分を請うたが、金日成は彼を抱起し慰撫して言った。「責任は私と中央にある。君達の責任ではない。」
 その日農舎を後にし、道里の官員に農業対策について指示を与えた後、彼は夏の仕事場である妙香山の別荘へと向かった。そこには処理しなければならない公務が山積みになっていた。丁度その時空の雲行きが俄かに怪しくなり、大雨が降り出して、飛行機が離陸不能に陥った。大雨は次第に暴風雨へと変わった。官員達は現地で一泊してから明日妙香山へ発つ事を勧めたが、金日成は承服せず、結局汽車での移動となった。ドイツ製プールメン列車は雨の中を疾走し、その車窓には雨中に霞む風光明媚な山岳風景が映し出される。しかしそのような外の雄大壮麗な景色も金日成の心を惹きつけはしなかった。今回の農村視察が彼にはあまりにも衝撃的であった。「我が国の農業を今迄の方式でこれ以上継続していく事はもうできない。謙虚に中国の経験から学ぶべきだ。」中国が改革開放政策に転じて以来、金日成は何度も中国を訪問視察している。彼はケ小平に伴われ一緒に四川省まで足を運んだ事もある。金日成は改革開放政策の実効性に疑念を抱きつつも、一方では中国で見た経済及び社会の変化に大きな衝撃を受けていたに違いない。例えば、帰国後、彼は羅津経済技術開発特区の設置に着手したし、外資の導入と外国企業との業務協力を直接指示した。また北朝鮮大勝銀行はこの頃率先してイギリスとの合資経営に踏み切っている。これらの事象が中国の影響による金日成晩年の心境の変化を着実に物語っているとは言えないだろうか。
 中国と言えば、彼には中国の古い友人が多かった事は周知の通りである。金日成は毛沢東に大きな借りがあった。朝鮮戦争の時、毛沢東は再三躊躇したあげく、最終的に参戦を決意し、人民義勇軍の名で半島出兵に踏み切った。その時彼の長男毛岸英も志願兵として参戦したが、今は戦死した15万の人民義勇軍の英霊達と共に北朝鮮の地に永眠している。旧時の恩義を感じてか、1976年毛沢東が死去した時、彼は弔問の為自ら先んじて平壌を発ち北京に向かった。しかし、時の中国中央政府は外国人の北京来訪を一律拒否する声明を発表した。それは所謂「四人組」の判断から出た措置であった事を金日成は後から知らされた。そこで彼は金聖愛夫人と共に自ら生花を摘み取り、毛氏逝去を追悼する為の花輪を作り、副外相全明珠(後に北朝鮮駐中国大使に就任)に託して、北京政府に献じたという。また他の中国の国家指導者達とも、彼は親密な関係を長く維持してきた。
 話を元に戻すと7月7日夜、金日成を乗せたその列車は熙川で停車し、彼はそこで専用車に乗り換えて妙香山の別荘に到着した。この時、連日の公務に忙殺され、彼の体力疲労は限界に達していた。その時金日成のもとに76歳の趙明選上将病死の知らせが突然飛び込んできた。これが妙香山到着後始めに秘書から聞かされた報告であった。この悲報は金日成を悲しみのどん底に突き落とした。趙明選は14歳の時から金日成に随従し、抗日及び抗米のゲリラ戦を戦い抜き、数十年間艱難を共にして来た側近中の側近であった。ある意味金日成の手足とも言える存在であった。実はこれ以前の一ヶ月間で彼は二人の上将を既に失っていた。趙氏は三人目である。金日成は側近達との旧情を非常に大事にしてきた。特に革命の旧同志に対してはその思いもひとしおであった。例えば朝鮮革命の元老的存在である林春秋、崔庸健等に対しては何時でも最高の敬意を以って接したし、旧幹部達が過失を犯しても、懲役に従事させる事はほとんどなく、罷免後しばらくしてから再び採用することが常であった。朝鮮労働党と北朝鮮政府の規定では朝鮮戦争時の功労者である所謂「抗連幹部」の二代目、三代目の家族には政治上の特殊待遇が保障されていた。「2.8」、「4.25」、「7.27」等の軍事記念日には祝賀行事が盛大に行われ、金日成は常に「抗連幹部」達と宴席を催した。
 金日成は趙明選病死の知らせを聞いた時、死因について追及した。脳内出血によるものだとの報告を受けると、如何なる応急処置をしたのか問い、保守療法で治療を試みたとの報告を受けると、激怒して「なぜ有効な応急処置を迅速に採らなかったのか。医者は責任を恐れているのだろう。今すぐ烽火病院の院長をここまで連れて来い」と叱責した。金日成が卒倒したのはこの事件の直後である。医師の診断によると心臓発作によるものであった。応急手当てを施す為金日成を妙香山から平壌の烽火病院へと運ぶ事が急遽話し合われた。平壌から護送用のヘリコブターが飛び立った。しかし前日からの暴風雨のため、山岳地の視界が極度に悪化しており、ヘリコブターは風に煽られバランスを失い、山腹に墜落して大破した。第二機目がすぐ離陸したが、別荘から50メートル離れた地点に着陸するのがやっとであった。別荘に居合わせた官員達は傘を片手に金日成を暴風雨の中担架でヘリまで運び、烽火病院へと護送した。心臓発作を起こした時、体をむやみに動かすのは禁物であり、胸部へのマッサージと人工呼吸を繰り返して、絶対安静を維持しなければならないのは医療の常識である。心臓発作の患者を暴風の中ヘリで運ぶとは、金日成卒倒時の官員達の対応にも大きな問題があったと言わざるを得ない。烽火病院での応急措置も空しく、南北首脳会談の実施を目前に7月8日午前2時金日成の心臓の鼓動は完全に停止した。享年82歳であった。
 ロシアのある報道機関が金日成の死去を伝えた時、旧ソ連の指導者ブレジネフの事に言及した。その報道では彼ら二人の発作の経緯が非常に似ている事が注目された。ブレジネフも当時三人の旧戦友(???)を相継いで失い、その心理的衝撃が心臓の発作を誘発したと一般では見られているからである。金日成死亡のニュースが伝わった時、国際社会は第二次世界大戦後半世紀間続いた東西両陣営の対峙的局面が彼の死に伴い幕を閉じる事を確信した。

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