NO WHERE.
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ポカっと音が出たのではないかと思うほどの勢いで目を開ければ、段々と見慣れてきた天上があった。
石造りの天上。
ぐるりと見渡せば自室として宛がわれた部屋にいることが分かった。
しかもベッドに。
ゆっくりと身を引き起こす。
くらりとした眩暈に襲われて目元を覆うように手のひらをあててしばらく耐えた。
無意識のうちに詰めてしまっていた息を細く吐き出しながら目元にあてていた手で前髪をかきあげる。
暖炉の灯った暖かな部屋。
柔らかいベッド。
雪の中で倒れたのは夢だったのじゃないかとそう思ったが、椅子を使い暖炉の前で乾かすように下げられたコートを見てあれは夢でないことを突きつけてくる。
シヴァを召還した途端だった。
なんでもないことのひとつだった。
魔法を使える限界値は知っている。
まだまだ余裕はあったはずだ。
それを、ほぼ根こそぎ持っていかれた。
HPもMPも。
召還を解けといわれなければこの身ごともっていかれてしまっていたかもしれない。
何故。
確かに召喚獣―――それも上位の者を呼び出すには気力も体力も魔法力もいる。
アーサー王とその愉快な仲間達などそう何度も呼べるものではない。
契約は交わしたが、実際に呼びつけたのは両手に満たない。
プライドが高くあーだこーだと言いつける彼らを従わすには精神力が試される。
かなり使い勝手は悪い。
だが効果は絶大だ。
彼らの一撃の後に生き残る者はいないとされるほど強大だったからこそ繰り出した後は生も根も尽き果てたように倒れこむのが常だった。
彼らを呼び出したのであれば分かる。
だが、今回はシヴァだ。
暇な時は攻撃目標もないのに呼び出しては涼を得たり、世間話をしたりと良好な関係を築き上げてきていた。
気負わなくても呼び出せる相手。
氷の女王に敬意を払っていないわけではない。
ただ、特別な何かをしたわけではないが得意だったのだ。
召喚に関しては飛びぬけて。
何度炎の王、イフリートでザックスをフルボッコにしてやったか数え切れない。召喚能力に関しては負けない自信があった、のに。
「なぜ…」
不思議でしかなかった。
大きな怪我を負った身ではあるが、先ほどまではほぼ万全に近い状態だった。魔力に関しても満タンだったのだ。
特別な何かをしたわけじゃなかった。
いつも通りだったはずだ。
不可思議な現象に首を捻った瞬間、乾いた音と共に扉が開く。
現れた存在に視線を流したところで、チョッパーはまるで雷に打たれたかのごとく背筋をピンっと伸ばす。
そして蹄の音も高らかにこちらへと物凄い勢いで駆け寄ってきた。
チョッパー、とこちらが声を上げる前に、
「な、な、なにしてたんだ、ばか!」
叩きつけられたのは怒りに満ちた声。
「内緒で、出ていくからだ!」
ベッドへとジャンプしたチョッパーに飛びつくようにして胸倉を掴まれ引き寄せられた。
間近になった黒い瞳がギリギリと怒りを露にこちらを睨みつけてくる。
「一番最初に***を見つけたとき、本当に凄く酷い怪我だったんだ。いっぱいいっぱい血も流れてて、雪なんか真っ赤で。体温も低くてどんなに暖めても温かくならなくて。息だって心臓だって何度も止まった!ドクトリーヌと交代でずーっと診てたんだ!死んじゃうんじゃないかって!」
怒りが篭った眼差しに伴う荒々しい息が漏れる。
初めて見る、伝わる、チョッパーの本気の怒気を受けた。
驚きに瞬きをした瞬間、
こちらを見つめていた黒い瞳に劇的な変化があった。
まるで今まで塞き止められていた水が一気に流れ落ちるかのように、小さなトナカイの黒い瞳から溢れ出すのは―――涙。
「それっ、それがっ、ポーションってやつのおかげで元気かもしれないけど、……っ……それはずっと治ったままなのか!?大丈夫って、ほしょーはあん、…あんのか!?ここはすげー山奥だし、勝手に、出て行って、た、倒れたら誰も助けてくれない。熊だって、狼だって、ラパーンだっている!あんな怪我してたのに、今日だって急に倒れて!人間が雪に埋もれたら、すぐに、…凍死っ、しちまうんだ、ぞ!」
ぎゅうっと掴まれ引き絞られた布地が乾いた音をたてる。
「―――お、おれはっ!おれはっ!」
泣きそうな苦しそうな声音で、
「もう、誰も死なせたくないんだ!」
ダメだ、とそう叫んだ。
絶対にダメだ、と。
死なせない、死なせたくないんだ、と。
ぎゅっと縮こまった身体。
叫ぶだけ叫んで俯いてしまったのでその顔は見えない。
うっうっ、と小さく漏れる嗚咽を前に、ようやく自分がこの暖かな部屋にいるのはこの小さな存在があの雪の中から見つけ助けだしてくれたのだと悟った。
「チョッパー」
名を呼んだ途端、小さな身体がビクリと跳ねる。
「考えなしで、ごめんな。勝手にふらふらしてごめん。心配かけてごめん。その、―――ごめん」
炎が爆ぜる音だけの室内に落ちる嗚咽を聞きながら言葉を繋ぐ。
万全に近しい状態だから、慣れたことだから、と高をくくっていたのだ。
誰よりも怪我の心配をし、きっと人の傍にいるのは苦手だろうにずっと傍にいてくれた存在。
いつでもどこでも、視線を流せばこの小さなトナカイがいた。
何があってもすぐに手を出せるようにと気を配り控えてくれていたのだ。
ごめん、と再度謝罪を口にして丸く縮こまった背中を撫でる。
「本当は、もうここを出ていけるんじゃないかと思っていた。というより動けるようになったら一刻も早く出ていかなければならない」
ピクっと帽子から出た角が小さく揺れるのを見ながら小さな背中を撫で続ける。
「やらなきゃいけないことが―――あるんだ」
倒さなきゃいけない男がいる。
友人の安否も分からない。
静寂に包まれた居心地の良さに浸ってしまったけれど―――調べたいこと、やりたいこと、やらねばならないことが山積みなのだ。
だから、と続けようとした言葉は、
「ダ、ダメだ!」
鋭い声に遮られる。
「……チョッパー?」
「***は、医者なのか!医者がいいって言うまで患者は勝手にいなくなっちゃだめなんだ!」
鼻にかかり震えるような声であったけれど、それは決意に満ちていた。
「やらなきゃいけない事っていうのは、怪我もちゃんと治さずにやれるモンなのか!***も強いかもしれないけど―――」
服の布地を握りこんでいた小さな蹄が動く。
俯いていた顔がぐっとあがり、うるうるになった黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめ、強くはっきりと言い放った。
「おれだって、強いぞ。凄く強い。それでも出て行くっていうならおれを倒してから行け」
トンっと胸を蹄によって突かれる。
勇ましい言葉とは裏腹にその蹄からはとても優しい衝撃がきた。
少しだけ上半身が揺らぐ。
こちらを見上げたまま、チョッパーは目を逸らそうとはしない。
今、世界はどうなっているのか、神羅がどうなっているのか分からない状況で焦っていなかったと言えば嘘になる。
小間使いのような生活は穏やかで心温まるものだったが、その反面、心の奥底でじりじりとした焦りが澱のように積もり溜まっていたのも事実。
早く行かなければ、早く、早く、早く。
耳奥で何度もごうごうとした炎の音を聞いた。
何度も何度も、炎の幻を見た。
けれど、
『やらなきゃいけない事っていうのは、怪我もちゃんと治さずにやれるモンなのか!』
突きつけられた言葉は予想以上の重さがあった。
そうだ、やらなければならない事―――相手にしようとしているのは万全の体制で挑んでも勝てるか分からない相手だ。
『―――アンタは医者かい?』
そう問うたドクトリーヌの言葉も脳内に巡る。。
自分勝手な判断で、何度もこの心優しい存在をかなり傷つけてしまった。
振り仰ぐようにして天井へと視線を流す。
―――悪い、ザックス。
安否も分からない中、早めに行動しなきゃいけないって分かってる。
けれど、お前は無事だと信じてる。
あんな所でやられるような男じゃない、と。
だから、倒したいと願う男の前で二度と無様な姿をさらさないためにも、
確実に仕留める為にも、
「―――もう少し、いてもいいかな」
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