Law

□ep.9
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――お茶、僕が淹れようか?

『彼』との初めてのコンタクトは、『彼』から発せられたその一言だった。

近くには誰も居ないと思っていたのに、
突然見知らぬ人に――しかも男性に声を掛けられて、
藍は一瞬で体を硬直させてしまった。
もちろん、体は硬直しても、溢れる涙が止まったわけではない。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、藍は驚いた表情で『彼』を見つめた。

――無理は良くないよ。

『彼』はひとことだけそうつけ加えて、藍の手元に置かれていたティーポットを手に取り、
そしてガスコンロの上で湯気を噴いていたやかんからお湯を注いだ。
ティーポットの蓋は開けっぱなしだったので、中にティーバックが入っていることは
ちらと見て確認済みだったようだ。
そうしてしばらくティーポットを置いて、頃合いというところで
やはり藍の手元に並べて置かれていたティーカップに次々と注いでいった。
その動作にはまるで迷いはなく、むしろ日常的にしているような慣れを感じさせた。

「あ、あの……」

藍はあまりにも自然に流れていく動作をただ見ているしかなく、
そして自分はどうすれば良いのか判断に困ったがどうしようもなかった。

自分の泣き顔を見られた。

ただそれだけで、藍は行動を起こすことを躊躇った。
今まで人前で涙を流したこともなかった、
いつも泣く誰かを慰めたりする役回りだった。
そもそも“泣く”という行為自体、ほとんどなかったのだ。

この状況下で、自分はどうすればいい。
相手は別段、これ以上干渉する気もないようで、
自分が泣いていたことにどうこう言ってきてはいないし、
泣いていたことについて『彼』に取り繕う必要があるようには思えない。
かといって、このままぐずっていていいものだろうか。
藍の頭の中で、そんな疑問がぐるぐると巡る。

――誰に持っていけばいいのかな。

『彼』にそう尋ねられ、そこで藍はハッと我に返った。

「いっ、いえっ!私、自分で持っていきますから……すみません、代わりに淹れていただいて」

藍は慌てて『彼』が持っていたトレーを持ち、ぺこりと頭を下げた。
顔も知らないのに代わりにお茶を淹れてもらって、しかも運んでもらうなど
厚かましいことこの上ない。
さすがにそこまでして貰うほど、藍は甘ったれた性格ではなかった。

――気にしなくていいよ。それじゃ、気をつけてね。

『彼』は笑ったかどうかも分からぬようなうっすらとした笑みを浮かべ、
そして藍に向かって軽く手を上げてひらりと振ると、
すたすたと歩いてその場から立ち去った。

しばらくその後ろ姿を眺めていた藍は、
ずいぶん歩き方が綺麗なひと、と思った。


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