Law

□ep.10
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「――おはよう、雄貴」
「おはよう、藍」

『彼』――総務部に所属する瀧源雄貴は、いつもと変わらぬ笑みを湛えて
藍に挨拶を返した。

給湯室で初めて出会ってから三ヶ月ほどで、藍と雄貴の距離は
格段に縮まり、やがてどちらからともなく気持ちを打ち明けたことで、
二人は付き合いを持ち始めた。
だがお互いに仕事が忙しく残業も珍しくはないため、
そうそう二人きりで出掛けたりなどということはできない。
こうして給湯室で出会って話ができれば良い方で、
時には二、三週間もの間メールや電話だけで過ごすということもあった。

だが藍は決してそれを寂しく思うこともなく、
穏やかに、心満たされた日々を送っていた。

相も変わらぬ笑みを浮かべる雄貴は、藍にとって大きな心の支えであり、
大切な拠り所でもあった。
部署で妬みや嫉みを向けられることもまだしばしばあったが、
以前よりはずっとそれを重荷に感じることはなくなったし、
藍が無理をしていれば必ず雄貴が気がついて、
泣きだしてしまうほど溜め込む前に、吐き出させてくれた。
また雄貴は、藍の心に対して深く踏み込んでくることもなく、
藍の意思を一番に尊重してもくれた。

未だかつて出会ったことのなかった優しさに藍がますます
惚れ込むのも、無理からぬことであっただろう。
藍が求めていたのはまさにこういう人間だったのだ。
決してしつこくなく、だが優しい気遣いと愛情をよく見せてくれるような、
不思議な温かさを持った人。
ずっと探し続けていた人がようやく見つかって、しかもその人は
自分を愛してくれている。
藍の日常は明るさを増し、幸せで溢れたものとなった。

そんな日常が続いたある日、突然雅貴からこう持ちかけられた。

「藍、今の仕事を辞めて――僕についてきてくれる?」

辞令が出された――それ故の、初めての雅貴からの『お願い』だった。
藍の答えは、言うまでもなく。







雅貴が配属されたのは、本社だった。
業績が全てであるこのご時世、『普通』と言ってしまえば『普通』だったが
それなりには大きな会社だったせいか、本社はかなりの『街』にあった。
有能な会社員だった雅貴はその能力を買われ、本社配属が決定したのだそうだ。

だが藍は本社配属を受けたわけでもない。
しかも勤めていた支社はその『街』からは遠く、お互い仕事をしつつ
付き合おうと思えばかなりの遠距離恋愛になることは間違いなかった。

だから雅貴は、藍に仕事を辞めてついてきて欲しいと頼み――もはやそれは
プロポーズにも近い頼みではあったが――そしてその頼みを、藍は
一も二もなく承諾した。

今、自分から雅貴を失うことなど――そうそう顔も見られないような状況に
なってしまうことなど、藍にはとても考えられなかったのである。

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