Law

□ep.13
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「…………」

翌日の昼前、ローは医務室へ藍の様子を見に顔を出した。
藍はいつも、クルー達が朝食を食べに食堂へ行く時間には起き出して一緒に食堂へ行って
いたのだが、流石に昨日の今日ではまだ目は覚ましていない様だ。
睡眠薬も良く効いてるみてェだな、と毛布の下で規則正しく上下する胸を確認しながら、
ローは心の中で呟いた。
そのまま、ベッド脇に置かれていた椅子に腰掛け、藍の寝顔を眺める。

そしてふと、昨夜の藍の錯乱を思い出して眉を顰めた。

藍がこちらの世界に来てから既に三週間は過ぎて、クルー達も藍の存在に大分
慣れてきた。
一切女っ気の無いこの船においては藍は貴重な潤いでもあったし、割かし見目の良い藍は
しっかりと女の色気も放っていて、怪我をしていなければ危うくクルー達の抑え切れない
欲の渦に巻き込まれてしまいかねないくらいだった。
しかし流石にローの能力の餌食にすすんでなりたいと言う者は居らず、実際にはクルーの
手伝いを禁止されているのでただ眺めているしかない藍と多少言葉を交わす程度の
事だったが。

そしてローの眼には、藍もそれなりに"こちら"に馴染んできているように見えていた。
だがその実、そんな事実は無かったのだとあっさり否定されてしまった。

昨夜の藍の様子が、その明らかな証拠だ。

たとえ今元の世界に帰れたとしても、もう答えなど見えてこないだろうに――それでも
藍は、暗すぎる道を奥へ奥へと、深すぎる澱みを下へ下へと堕ちていこうとしている。

だが、堕ちていくその中途にも、まだ希望はちらほらと残っていて。
そうして堕ちていく間に光を垣間見ることで、狂っていく。
確かにあった幸せを想い、しかし今はもうその手にない現実を知って、壊れていく。

既に藍は、その深みに嵌まり始めているのだ。
誰も救い出せなくなる、永久に続く苦痛と恐怖のループに。

「……チッ…」

ローはぴくりとも動かない藍を見ながら、小さく舌打ちをした。

このまま寝かせていたら、もう二度と帰ってこなくなる可能性もある。
気付かないうちに内側が壊れて、残された外側はただそこに在るだけになってしまう
かもしれない。
内側の崩壊など、外からしか藍を見ることができない自分達には到底発見できない
ことであって、長いこと動かなくなって初めてもう二度とその瞼が持ち上がらないことを
知るのだ。

ならば、手遅れにならないうちに――

ローは何度もそう思うのだが、やはり藍に触れるのは容易にできることではなく、
下手に手を出せば逆に藍は傷ついてしまうかもしれないという不安に取り憑かれていた。
過去と希望と恐怖とを綯交ぜにして現実を見ることを拒絶している人間に、外からの
刺激を与えていいものなのだろうか、かえって悪影響を及ぼさないだろうか。

様々な懸念が頭の中で渦巻き、伸ばそうとしたその手を引き止めさせる。

しかしその実、本当に藍に手を触れさせない理由は別にあった。
藍を傷つけやしないかという心配は建前で、藍の心を余計閉ざしてしまわないかという
懸念も建前だ。

ロー自身も既にその存在には気付いていて、認めたくはないが認めざるを得ない、
己の内の『恐怖』。

藍に触れようとするその手を躊躇わせる最も大きな原因は、海賊になると決めて仲間を
集い、自分の船で故郷の島を出たときからもはや自分にはないと思い続けてきた
感情だった。
きっとこれからも縁遠い感情だと、一切自分には関わってこない感情だと高を
括っていた。

まさかこんなところで、自分の欲を阻む様な形で現れるとは――

ローは、つつ、と頬の際を伝っていく冷たいものに苛立ちさえも感じたが、それと同時に
どうしようもないこの『恐怖』とかいうものを一体どうしようかと、眉間に皺を寄せつつ
頭をひねっていた。

もしも――もしも、揺り起こした藍が目を覚ました時、自分を拒絶したら。
揺り起こした藍がたとえ正気でなかったとしても、自分を受け入れてくれなかったら。

絹を裂くようなあの悲鳴をもう一度聞くのは、どうあってももう二度と御免だった。



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