Law

□ep.16
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「――ごちそうさまでした」

音を立てぬようそっと手を合わせ、藍は食器を手に立ち上がる。
もう一度ごちそうさまでしたと言いながらキッチンへ食器を返せば、コックの一人が
「ありがとう」と言ってそれを受け取った。

(さて、お昼ご飯は食べ終わったし…船長さんのところに行かないといけないわね)

藍は後ろ手に食堂の扉を閉めると、ふうと一息ついてから船長室へ足を向ける。

しかし、やはり朝からローの姿は見ていない。
不規則な生活をしている彼が昼前に起きてくることはほとんどなく、非常に稀なことだ。
船長室に行ってみたところで、まだローは寝ている可能性が高かった。










――こんこん。

「…………」

扉をノックしてしばらく待つが、返答はない。

こんこん。こんこん。

続けて何度か叩く。
たが――やはりというか、返答はなかった。

「船長さん?……入らせてもらうけれど、いいかしら?」

念のため藍は外から声を掛け、確認をとるつもりで聞いてみる。
当然のこと返答はないのだが、黙って部屋に入ってしまうのも気が引けるのだ。
尋ねることに意味はないが、つまりは他人の部屋を訪ねるにあたっての形式的な挨拶だと
でも言っておこうか。

藍はそっとドアノブを回し、船長室へ足を踏み入れた。

(……やっぱりまだ、お休み中だったわね)

部屋の一番奥の隅に置かれたベッドの上で、上半身裸のローが右半身を下にして
眠っている。
ローの寝姿は初めて見たが、なんか外国人みたいな格好で寝るのねと、藍は思った。
そして自分は、今さら異性の裸を見て反応するようなうぶな感覚は持っていない。
足音を極力立てないように気をつけながらベッドまで近寄り、声を掛けてみた。

「……船長さん。お昼よ」

またしばらく待つが、反応はない。

しかし、そんな大層な用事でもないし、糸を切って抜く程度ならすぐ済むだろうから、今
無理に起こす必要もない――が、ローがいつ起きてくれるかも分からない。
一応は昼過ぎに行くと言ってあるのだから、彼が目を覚ましたとき自分がこの部屋に
いなければ、彼に自分を呼びにこさせるという余計な手間をかけることになってしまう。

(……船長さんが起きてくださるまで、悪いけれどこの部屋で待たせてもらおうかしら)

本人にきちんとした断りもなく滞在するのは良くないかと思ったが、それくらいしか
打開策が浮かばなかった藍は、とりあえず窓際のソファの端に腰掛けた。

(幸い、本がたくさん置いてあるから退屈はしなくて済みそうね)

右手に広がる膨大な量の本を見て藍はそんなことを思いつつ、並べられた本棚に
視線を滑らせていく(あとこれはたった今気がついたことだが、こちらの世界とあちらの
世界の日本の言語は驚いたことに同じらしい。背表紙の文字は日本語で書かれているため
難なく読むことができた)。
その中で何となく雰囲気やタイトルで興味を惹かれたものを一冊取り出し、ぺらりと
開いてはみるのだが、しかしそうはいってもこの本棚に並べられた本達は皆医学に関する
ものばかりのようで、どれをとっても中身は医学書だ。

藍は何冊か取って開いてみて、その中で一番小難しそうにない本を選んで
読むことにした。

そうしてしばらくの間藍は無言でページを捲り続けていたが、ふと突然ページを捲る
手を止めたかと思うと、あらぬところを見るような目で宙へ視線を向ける。
そして自分の頬に手を当ててぼうっとしているその様子からすると、どうやら考え事を
しているようだった。

(………"死の外科医"なんて言われているくらいなら、てっきり解剖学とかそういうものに詳しいのかと思ってたのだけれど)

自分が今しがた読んでいた本から、藍はローに対して新たな見解を持ったようだ。

(この本はヒトの免疫のメカニズム、さっき開いた本は骨関連の怪我の治療法、一番初めの本は感染症予防とその治療法……)

"死"などという随分不吉な通り名がついているようだが、藍にはむしろ"外科医"の方が
本質的に合っているのではないかと思った。
ただひとつ疑問に感じるのは、これらの医学書に"外科"ではない分科の医学書までもが
多数含まれていることだけだ。
自分の勝手な想像だが恐らく、これは医者として勉強熱心なだけなのだろう。

(でも確かに……自分が優秀な医者だったら他に医者は要らないし、便利かもしれないわね)

すでに船長という責任の重い立場にありながらなお医者としての責任も果たそうとして
いるのならば、もしかしなくても彼は素晴らしい人間性を持った人なのかもしれないと、
藍は再びトラファルガー・ローという人間の凄さを垣間見たように感じた。

死にかかっていた自分を助けてくれた時も然り、自分でも信じ難いような異世界説を
信じてくれた時も然り、――自分が何の痛みに苦しんでいるのかをわかってしまって
いるであろうことも然り。

彼はどこまでも偉大な器を持った人間なのだと、改めて思い知らされる。

藍は参ったとでも言わんばかりに苦笑して、ふうと小さく息を吐いた。

「………藍か?」

すると左手側から、ようやく待ち望んでいた声が掛かる。

「あら、やっとお目覚めね…船長さん。もうお昼はとっくに過ぎてしまったわよ」

悪いけれど勝手に中で待たせてもらったわ、と藍は付け加えて、くすりと笑った。

たった今目が覚めた様子のローは、ベッドに上体を起こしつつもまだ眠そうに目を擦って
いるが、藍が昼を過ぎていると言ったことで思い出したのだろう。
少しだけばつが悪そうな顔をした。

「あァ……悪かったな、呼んでおいて」

ぽり、と頭を掻いたローは大きく欠伸をすると、ベッドから下りてぺたぺたと足音を
立てながら、入り口近くに置かれた小さめのケースに近寄っていく。
そしてその蓋をぱかりと開け、茶色いガラス筒に立たされていた普通サイズの鋏を一挺
取り出した。
茶色いガラス筒には同じ鋏がまだ何挺か立てられていて、多分あれは消毒液に浸けられて
いる医療器具のケースだなと藍は思ったが、そんなのは別にどうでもいいことなので
わざわざ口に出したりはしない。

ローはソファに座る藍の元へやってくると、軽くシャツの裾を捲って縫い傷を
あらわにする。
ぱちん、ぱちんと二回糸が切れる音がすれば、後は少し引くだけでするするっと糸は
抜け、あっという間に抜糸は済んでしまった。

「ありがとう、船長さん」
「……あァ」

藍はにこりと笑って礼を言うと、出していた本を元の場所にしまう。
興味があるなら持っていっても良いぞとローが言ったが、とりあえず遠慮しておいた。
一番簡単そうな本とはいえ、一応は医学書だ。
自分が読むにはやはり難しい部分が多く、好んで読むことなどはできそうになかった。

「それじゃ、失礼するわ」

再びにこりと笑みを浮かべてローを見てから、藍は船長室を後にした。








"海賊"というイメージは、むしろ貴方に似合わないと思った。
 

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