Law

□ep.17
1ページ/1ページ



目が覚めた時、ソファに腰掛けて本を読む藍の姿は真っ先に目に入ってきた。
窓から差し込んでいる光の位置を見てみれば、とっくに昼をまわっていることもすぐに
分かった。

それでもさっさと体を起こさず、声も掛けずにじっと藍を見ていたのは、思いの外
彼女のその姿が美しく見えたせいかもしれない。

藍が本を読む姿などはかつて目にしたことがなく、しかしだからといってその姿が
気になって気になって仕方がないなんてこともなかったのだが何故だろう、いつもと
変わらぬ微笑みさえ浮かべながらページを捲る彼女の纏う空気だけが、この部屋の中で
凜と輝いている気がした。
確かな自己の存在をそこで主張しているような、それでいて儚げで、ふとした瞬間に
淡く消えてなくなってしまいそうな、強いのか弱いのか分からないような輝きが、彼女の
身体を包み込んでいるような気がしたのだ。

藍の気配そのものを感じていたわけではない、ただ何となく――そういう雰囲気が
漂っているように見えた。

もぞ、と少しだけ身動きしてみるが、藍が気付く様子はない。
どうやら完全に本の世界に没頭しているようで、この部屋にあるのはどれも医学書だから
素人には面白くもなんともないはずだったが、それでも集中して読み込めるのなら、
藍はもしかするとそっち方面に関心があるのかもしれなかった。
ある程度の基礎医学は教えといても良いかもしれねェな、とか思いながら俺は、やはり
ベッドから動くことなく藍の姿を見つめ続ける。

昼過ぎに抜糸をするから来いと言ったのは自分で、それなのに寝ていたとなれば普通
やって来た側は起こすものなのだろうし、寝ていた側は起こされて当然なのだろうが、
しかし藍は自分を起こさずに、この部屋で待つという選択をした。
普段なら呼びつけたクルーは寝ている俺を起こすから、そもそもそういう選択をした
藍に意外性も感じて、俺は知らず知らず笑みを浮かべる。

完全に回復したのでもないくせにクルーの仕事は手伝おうとするし、朝起きる時間や
夜寝る時間、朝昼晩の飯を食べに食堂へ行く時間は変わらないし、海を見に甲板へ出る
時間だって大抵決まっているような奴だったから、やたら時間には真面目な性格なのかと
思っていたが、どうやらそういうわけでもなかったらしい。
昼過ぎにというアバウトな設定だったせいもあるかもしれないが、完全に昼を回って
いるであろう今も、藍は俺が起きるのを待っているのだ。

時間にきっちりしているところもある反面、いつ起きるのか分からない人間が起きて
くるのを待っていられるような余裕も持ち合わせているという新たな一面を発見できた
ことが、俺にとってはまたささやかな喜びとなっていて、そのことに気付いた俺は、
心の内で自嘲気味に笑う。

気紛れに拾っただけの一人の女に、この"俺"が――こんなにも動かされているとは。

考えてみれば可笑しな話だ。
こんな見目の女なら他にいくらでもいるし、むしろ何もしなくても奴等の方から
言い寄ってくるから、これまでに嫌というほど女というものは見てきたはずだ。
それが今更――たった一人の女に興味をそそられて、好奇心をくすぐられて。

――いや、だからか?

嫌というほど見てきた女の中に、こいつのようなタイプはいなかった――だからか?

職業柄のせいかやたら積極的でうぜェ奴、自分に絶対の自信を持ってる自惚れた奴、
せめて気位だけでも高く保とうとしてる奴、へらへら笑って全部受け流そうとする奴、
現実を拒絶してまるで人形みてェになった奴。
単なる一般人ならあとは、俺に怯えるだけの奴か、嫌悪やら憎悪やら丸出しの奴と、
俺達に何だかんだ言って要らねェモン売り付けようとした商魂逞しい奴もいたな。

だがそこまで思い出してみてもやはり、藍のような女に出会ったことは一度も
なかった。

飄々として軽そうに見せつつも、内側にはしっかりとした芯を持っていて、しかしその
どこかにふとした瞬間折れてしまいそうな危うさもあり、他人には決して見せないような
闇を抱えながら笑う。
彼女の過去を聞いていなければそんな暗いものを背負っていることにすら気付けない
ほどに、藍が見せる笑みは完璧な仮面になっている。

だからこそ俺は、その仮面がふと浮いた瞬間に見える表情が増えていくたびに、喜びを
覚えるのだ。

願わくば、仮面を全て取り去った彼女の総てを見てみたい。
黒部 藍という未知の境地にある女の、自分が知らない総てを。

その為には、藍が持つ余計な荷物は下ろしてやらなければならない。
仮面を剥ぐのに邪魔なものは、全て取り去ってしまわなければならない。

そしてそれができるのは――この俺だけだ。

本を読むのを止め、何やら考え事に耽り出した藍のその横顔を眺めつつ俺は、
突如現れたこの"楽しみ"がこれからの日々を飾ってくれることを期待して、ようやく
『起きる』ことにした。







さあ、ゲームを始めようか。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ