Law

□ep.6
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「…とてもおいしかった、ありがとうございましたって、コックさんに伝えといてくださる?」

トレーにのった皿を全て綺麗に空にして、藍はそれをベポに差し出した。
何とも律儀なことに、藍が食べ終わるまでベポは、
藍の座るベッドに一緒になって座って待っていたのだ。
おいしそうに朝食をとる藍の顔を、にこにこと眺めながら。

「うん、分かった!きっとコック喜ぶよ!」

ベポはトレーを受け取ると、はしゃぎながら医務室を飛び出ていった。

「…………」

藍はそれを微笑みで見送って、ふと自分の腹の傷に手を当てる。

昨夜のあの疼くような痛みは、まるで何でもなかったかのように陰を潜め、
今では治る前のチクチクとした痛みが少しだけ感じられるのみだ。
だが何故だろうか、傷の事を考え出すと、徐々にその痛みが増してくるように思われた。

藍は少し歯を食いしばり、傷のことを頭の中から消そうと、できる限り意識の外に出そうとした。
しかし、そう努力すればするほど、それは意識に深く刻み込まれていくようで、
ますます痛みは激しさを増して疼く。

「つ………ぅ、」

痛くない、痛くない、痛くない、痛くない――
藍は腹を抑えながら、呪いのように、心の中で繰り返し繰り返しそう唱え続ける。

気が付いたときには、ローが目の前に立っていた。

「……傷見せろ」

有無を言わさぬ調子で、ローは一言だけ告げる。
だが藍は痛みを堪えるのに必死で、ローがいつの間にか目の前に立っていたことさえ
認識するのに時間がかかっていて、その言葉を飲み込むのにはさらに時間を有した。
それをじれったく思ったのか、ローは傷を抑える藍の手を自分で除け、
藍がクルーから借りて着ているシャツの裾をたくしあげる。
そして、眉間に皺を寄せながら傷をじっと見つめていた。

「……別に、膿んでるわけでも腫れてるわけでもなさそうだがな…何をそんなに痛がってる」

やがて裾を下ろし、怪訝そうな表情で藍に問うた。
藍は額や首元にびっしょりと汗をかいていて、顔色も優れない。
ローを見上げるその瞳も虚ろだ。
しかしローが見た限りでは、傷は至って良好な状態だし、
そこまで疲弊するほどに痛む原因があるとも思えなかった。

しかし、医者である自分の見立てと、患者である藍が感じているものに矛盾が生じたのでは、
医者としての自分の面目は丸潰れだ。
痛みがあるようには思えなくとも、現に藍はこれほどに痛みを感じているのだから、
その原因は突き止めねばなるまい。

「どの辺がどう痛むんだ?」

ローは、ベッド脇に置かれたタンスの引き出しを開けてタオルを取り出し、
藍の手元に投げてやる。
藍はそれを、実に緩慢な動作で拾い上げて、額と首元の汗を拭った。
そして、ふぅ、と一息ついて、改めてローを見上げ、

「……もう大丈夫よ、何ともないわ。治まったから」

微笑と共にそう言った。
だがローには、どうもそれが痩せ我慢のように見えて仕方がない。
さらに眉間の皺を刻み、藍を問い詰める。

「……俺は騙せねェと言っただろうが。お前のその顔の、どこが大丈夫なんだ?」

ローの言葉に、藍は苦笑する。

「…『もう嘘はつかない』と、言わなかったかしら?」

藍は膝の上でタオルをきちんとたたみ、ぽんぽんと軽く抑えて、
「どうもありがとう。汚してしまって悪いのだけれど」ローに差し出す。
ローは無言でそれを受け取り、藍の顔を疑わしげに見た。

「……本当に、大丈夫よ。死にそうになったら、ちゃんと呼ぶわ」

藍は再び苦笑して、冗談めかしてそう言った。
だがローはその言葉にはもう返事をせず、くるりと背中を向けて医務室を出ようとする。
藍がその背中を見送ると、ローは扉の前で一瞬立ち止まって、何かをぼそりと呟いた。

しかしそれはあまりにも小さくて、藍の耳に届く前に空気に溶けていってしまい、
藍がローの呟きに気が付くことはなかった。

そして医務室を出て振り返ることのなかったローもまた、
悲しげに伏せられた藍の眼に何が映っているのかを知ることはなかった。







「……傷が痛んでるんじゃねェことくらい、」
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