Law
□ep.7
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「うえー、藍強えなァ…ボロ負けだ」
ニ十分を過ぎた頃、シャチはベッドの上で仰向けになっていた。
手に持っていた自分が取ったカードを、ばさーっとテーブルの上に放り出す。
向かいに座る藍が持つカードの束は、ざっと見シャチの二倍以上はあった。
どうやら、一回目のゲームは藍の圧勝で終わったようだ。
藍はくすくすと笑いながら、シャチがぶちまけたカードを綺麗にまとめる。
「ちょっと運があっただけよ。シャチさんだって、なかなかの記憶力だったと思うわ」
「うー…褒めてもらえんのは嬉しいけどさ、これはさすがに悔しいって」
藍が優しく言葉を投げかけると、大の字で寝転がっていたシャチが跳ね起きた。
「それとさ、その“さん”付けやめようぜ!そんな他人行儀じゃなくてもシャチでいいよ、シャチで」
どうやら、そこがまだ気になっていたらしい。
シャチの指摘に、藍は少し困ったように首を傾げる。
元の世界に居た時から自分は、人を呼び捨てにしたりするのが苦手だったのだ。
こちらに飛ばされるまでも、呼び捨てしていたのは唯一、彼氏のことだけだった。
同級生や親しい友人にだって、常に“さん”付けで通してきたのだ――向こうが
自分の事をあだ名で呼ぼうと、それが崩れたことは一度たりともなかった。
周りには「他人行儀だしやめないか」と何度も言われたがやはり、
それを崩すことはできなかった。
もはや自分の中で、人は“さん”付けで呼ぶものだと定義されてしまっていたようで、
しかも今までずっと“さん”付けで呼んできた人を突然呼び捨てやあだ名に変えてみると
違和感が半端ではなくて、何というか、居心地の悪さやむず痒ささえ感じたのだ。
「何の関わりもなくて身元も怪しいのに、治療までしてもらっていて…それなのに、そんな軽々しくお呼びできないわ」
苦笑しつつ藍がそう答えると、シャチは不満げに唇を尖らせた。
「なんでだよ、別にそんな大層なことじゃないし、助けたのは船長だし!俺達はみんな、藍と仲良くなりてェって思ってんだぞ!?」
シャチが噛みつくようにそう言い返してきたので、藍は少しばかりその勢いにたじろぐ。
テーブルに、ばんっ、と手をついて身を乗り出してきたシャチの顔が、
藍のすぐ目の前まできていた。
彼はサングラスをしているのでこちら側からはその目が見えないが、
シャチからは、藍の驚いた顔がよく見えていることだろう。
しらばくの間そのままの膠着状態が続き、先に折れたのは、はたして――藍の方であった。
“さん”付けすることをそこまで強く否定されたのは藍にとって初めてのことで、
むしろ“さん”付けすることの方が失礼だなどという風に言われてしまってはどうしようもない。
“さん”付けをやめる他には、道はないだろう。
藍はひとつ、小さく溜息をついた。
「……分かったわ。“さん”付けはやめるから…そう怒らないでくださる?」
そう藍が言った途端に、シャチが笑う。
にまーっという表現が最も似合いそうな、「してやったり」というような笑い方である。
「おっしゃ、決まりな!もうぜってー“シャチさん”なんて呼ぶなよ、“シャチ”だからな、“シャチ”!!」
「ええ、約束するわ」
苦笑しながらも藍が約束したことを確かめると、
シャチは嬉しそうに、まとめられたトランプをもう一度並べはじめた。
「じゃ、さっきのもう一回やろうぜ!リベンジだリベンジ!」
嬉々としたシャチの様子に、藍は再びくすりと笑みをこぼす。
久しぶりに子供じみた会話をしたものだと、少しだけ自嘲気味な意味も含めて、
また素性の知れない自分をこれほどまでに受け入れてくれているこの船のクルー達に、
感謝の気持ちを込めて。
上書きされてゆく、哀しみの記憶。