Law

□ep.9
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そんな出来事があってからしばらくして、藍は再び『彼』と出会った。
最初の時と同じ、藍がお茶を淹れに来た給湯室で。

「……あ」
「……あっ、…こんにちは」

お互い顔を覚えていて、初めて出会った時の事も当然覚えていた。
『彼』が声を発したことで藍は『彼』に気が付き、
何と言おうか少しだけ逡巡したが、無難に挨拶だけしておいた。

「こんにちは。二回目だね、ここで会うのは」
「…ええ。あの時は、ありがとうございました」

『彼』はまた、前の去り際の時のようにうっすらと笑みを浮かべていた。
いまいち気持ちを汲み取りづらい、無表情に近いような笑み。
だが、藍は不思議とその笑みを心地よく感じていた。

――いや、別段“不思議”ではないのかもしれない。
藍は心の中で、ふとそう思う。

今まで自分に笑いかけてきた男は、やはり自分に対する下心があったように思われた。
もちろんそうでない男も居たが、それはほんの少数派で、
しかもそれは自分と部署が違う男ばかりであった。
その所為だろうか、自分に意味もなくやたら笑いかけてくる男の笑みは、
べたつくようなと表現したものか、何となく自分にまとわりついてくるような感覚しかなく、
嫌悪感がすると言っても過言ではなかった。

それに比べ、『彼』の笑みは穏やかで裏がなく、
何ひとつ汚れた意思を見せていない。
爽やかな、とまでは言い切れないが、少なくともそれに近いイメージがあった。

『彼』は、他の男とは決定的に何かが違う。

出会ったのはこれで二回目だったが、
藍は直感に近い形でそれを感じ取っていた。

「あれから、無理とかしてない?」

いつものようにお茶を淹れていると、『彼』が唐突にそんなことを聞いてきた。
泣いていたことを気遣ってくれているらしいが、
これまた藍にとっては新鮮な態度だった。
『彼』は自分でもお茶を淹れながら、藍の方を向かないままに
そう尋ねてきていたのだ。

話すときに、自分の方を向きすらしないような男は今まで一人も居なかった。
自分と目は合わせられないまでも、必ず自分の体の何処かに視線を向けている。
それがいつものことだ。

――やっぱり違う。

藍は改めてそう感じながら、『彼』に答える。
自分もまた、『彼』の方を向かずに。

「ええ、…無理はしてないつもりですわ」
「それは良かった」

『彼』の言葉は短い。
無口なのか、必要最低限と思われる単語しか発さない。
しかし今の藍にとっては、それがとても心地よい会話だった。

お互いに用が済み、そして会釈をして給湯室を出る。
そして結局、終始『彼』は無表情にもとれるようなその顔のまま、
会釈して去る時まで藍を見ることはほぼなかった。

それからというもの、給湯室で藍が『彼』に出会う回数は増え――

そうして徐々に、二人の距離は縮まっていった。





泥沼の底から伸ばした手を、ようやく引き上げて貰えました。
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