nov5

□色んなことがあるもんだ
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案外時給の良い本屋のバイトは、私にはぴったりだった。別段忙しくもない毎日は、大した問題もなく呆気なく終わる。初めは面倒だとばかり思っていた、体力勝負の棚卸し作業も、私の数週間後に入ったマッチョな男の子のおかげで、私はお役御免となっている。まさにラッキーだ。というわけで、今ではちらほらと入る客をちらりと一瞥して、今日も特に異常のないことを確かめるだけ。それが私の主な仕事だ。カウンターの中にある古びた椅子に座って、適当に時間を潰すために商品の雑誌を拝借する。ここの本屋は、客が立ち読みをしても誰も(私も)何の文句も言わないためか、数十分ぼーっと突っ立っていたかと思えばふらりと出ていく客がほとんどだ。先ほどまでグラドルが表紙の雑誌を立ち読みしていたおっさんも例に洩れずふらりと店を出て行った。本当にこんなんで儲けがあるのだろうかこの店は。仕事をしない私が心配するのもどうかとは思うが、売り上げがいいとは到底思えない。まぁそれでもバイト代を貰っている立場としては何も言えないのだけれど。静かな店内を見渡して、何も問題の無いことを確認した私は再び雑誌へと視線を落とそうとした。



「ん?」



不意に開くドアに目を向けるとそこから入ってきたのは、一匹のたぬきだった。


(た‥‥‥‥たぬきが二本足で歩いてる‥‥‥‥‥!)



きっとこの衝撃は私の人生の中で最も大きいものになるだろう。だって二足歩行のたぬきなんて初めて見た。ちょこちょこという効果音とともに店内に入ったそのちんまい生き物は、わくわく、といった表情で周りの本棚を見渡している。カウンターの中にいる私には気づいていない様子で、そのまま奥の本棚へと姿を消した。あれはなんだったんだろう。最近のたぬきは二足歩行のうえ本まで読むのか。何か可愛らしいピンクの帽子を被っていた姿を思い出し、私はえも言われぬ興奮に浸った。




「なぁなぁ」


「はいっ?」



カウンターのバイトで身についた、呼びかけに対する咄嗟の反応。たまに立ち読みだけでなく本を購入していく客もいるからか、呼びかけられれば自然と笑顔になる習慣が身についた私は、カウンターの向こうから掛かる呼び声にも難なく反応を返し、顔を上げた。



「感染症に関する医学書ってどの辺りにあるんだ?」


「たっ、たぬきが喋ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



私としたことがこんなに取り乱してしまうとは。さっき人生最大の衝撃を受けたはずなのに、その記録はこうもあっさりと塗り替えられた。驚くことなかれ。最近のたぬきはどうやら言語能力も優れているらしい。私が思わず叫んだことに驚いたのか、カウンターの向こうに立つたぬき君(先ほど命名)はびくりと飛び跳ねて即座に「俺はトナカイだっ!」と声を張り上げた。



「トナ‥‥え、トナカイ?」


「オレはたぬきじゃないぞ、このやろう!」


「わぁたぬき‥‥じゃないトナカイと喋っちゃった!私トナカイと喋った!」



つい数分前に味わったあの興奮がぞくぞくと蘇ってきた。というか凄くないか。私トナカイと喋ったんだよトナカイと。トナカイってこんなちんまいっけ?という疑問はさておき、どうやらトナカイ君(いま命名)は私が彼と話したことに興奮しているのが嬉しいらしく、くねくねと体を躍らせながら「そんな、嬉しくねーぞこのやろ〜」といかにも嬉しそうに微笑んでいた。可愛い。欲しい。お母さんが許してくれたら飼いたい。



「‥‥‥あ、医学書なら、右の棚の上の方にありますよ」


「ほんとか!」



医学書の場所を聞かれていたことを思い出した私は、確かその辺りだったような、という記憶を掘り返しながら、トナカイ君に伝える義務を果たした。うろ覚えだけど。私の答えを聞くなり目を輝かせてとことこと駆けていく後ろ姿を見ながら私はある重大な事に気がついた。


そういえばさっきあのトナカイ君は医学書がうんたらかんたら言ってはいなかったか。なんという事実。最近のトナカイは医学まで齧っているらしい。人生最大の衝撃を今日という一日で三度も受けた私はなんだかひとつ成長したような気がする。







end


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