王子様のプロポーズ2

□彼女はラッシー
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ヘンリー様は公務をこなしながら、毎日遅くまで企業の不正を調べ上げる日々が続いた。
食事は、時間の無駄を省く為に、サプリメントやシリアルばかり。
料理長もヘンリー様の体調を心配しているのだが、ヘンリー様に物申すことができないでいた。
そんな日常がずっと続くと思っていたある日。

彼女は現れた。

八神綾香。

オリエンス出身の、シャルルの一画にあるベーカリーで働く、一介のパン職人だ。

ノーブルミッシェル城で、ヘンリー様とぶつかった際手帳を取り違え、その際、紛失した主の万年筆が見つかるまで
ヘンリー様にご奉仕するという『契約』を彼女は交わしたのだ。

彼女が来てから、私も周囲も驚かされてばかりだ。
ヘンリー様は、よく笑うようになった。
食事も彼女のレシピで作られたものを食するようになり、公務先でも彼女のレシピで焼いたベーグルを食される。
「今朝のベーグル、美味しかったよ」
ヘンリー様は、最高の笑顔を綾香様に向けた。
ヘンリー様の言いつけで、彼女は、公務以外なら食卓に同席する事を許されている。
王族と一般人が同じテーブルに着くなど、ありえない光景だ。
「ヘンリー様のお口に合うよう、頑張りました」
誉められて、綾香様は笑顔になる。
「店に出したら、確実に売れるよ」
「本当ですか!」
綾香様はヘンリー様のお言葉に、舞い上がらんばかりだ。
表情を感情を素直に出す綾香様を見ていると、こちらも自然と笑みが浮かぶ。
しかし、ヘンリー様の次のお言葉に、綾香様は固まった。
「シャルルに帰れたらだよ?分かってる、ラッシー」
「…分かってます」
持ち上げて、叩き落とす…ヘンリー様は渋面を作る綾香様に、爽やかな笑顔のまま、私が淹れたカフェオレを口にする。
「ラッシーも飲んだら?冷めてしまうよ」
「…あのヘンリー様」
「何?ラッシー」
カップをソーサーに戻す所作さえ、ヘンリー様は美しい。
「私の事、ラッシーと呼ぶの止めていただきたいんですけど」
「どうして?君は俺のペットでしょ」
瞬間、綾香様の全身からぴきっという音が聞こえた気がした…。
「俺は君の雇い主だ。主人にペットは従うものだよ?」
「確かに私は、ヘンリー様に雇われました。だけどペット扱いしないでください!」
料理長を始め、私も呆気にとられながら、目の前で展開する光景を見守る。
「朝からよく吠えるね。あ、そうか」
ヘンリー様はにっこりと綾香様に笑顔を向けた。
「今日は朝から天気が良い。お散歩に行きたいんだね、ラッシー」
「……」
綾香様の全身が屈辱にぴきぴきと音を立てている。
「ロイド」
「はい」
傍らに控えていた私は、半歩身を寄せた。
「中庭を彼女と散歩してくる」
言われて私は、驚きを隠せない。
「正午からの公務まで、調べものをされるのではなかったのですか?」
「そう時間は取らない。執務室に俺が戻るまでに書類の手配を頼む」
「…は、承知いたしました」
私は、一礼すると準備の為、食堂を退室した。
ご自身で組まれたスケジュールに変更を加えなかったヘンリー様が…。
資料を揃えるべく、私は驚きを抱えたまま廊下を歩く。

資料を手に中庭に面する回廊を通っていた時だ。
「だから私をラッシーと呼ばないでください!」
綾香様の憤慨した声に立ち止まると、歴史あるフィリップ城の中庭に二人の姿があった。
「…ヘンリー様…」
私は屈託なく笑うヘンリー様の姿に、目を見開いた。
「ラッシーって名前は嫌い?」
「好きとか嫌いじゃなくて、私には綾香って名前があるんです!」
「ペットはペットらしく、飼い主に従うものだよ?」
「ペット、ペットって!」
誰もがヘンリー様に口答えなどしないのに、彼女は…。
「じゃあ次のお散歩の時はフリスビーをしようか。ね?ラッシー」
「ふ…フリスビー…」
わなわな震える綾香様にクスクス笑いながら、ヘンリー様は腕時計に視線を落とす。
「お仕事の時間ですか?では私はこれで…」
辟易した様子で綾香様が言うと、
「…もう少しだけ延長だ」
「はいっ?」
「ラッシーは物足りないみたいだから、仕方なくだよ」
そう言って笑うヘンリー様こそが、それを望まれているような…。
私は、それを見なかったことにし、執務室へ足を向けた。
自分の胸に奇妙な暖かさを感じながら。
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