長編

□贄牢の蒼狐【扉の中】
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「ただいま」

誰もいないマンションの玄関入り口、リビングに向かって絢は防犯目的のために帰宅の挨拶をした
靴と靴下を脱ぎ、脱衣所の電気を点けて脱いだ靴下と作業着を洗濯機へと放り込む
奮発して購入した乾燥機付きのドラム式洗濯機は、清掃業に就いた絢には正に神アイテムだ

ゴウンゴウンと音を鳴らし、回る洗濯物
乾燥を知らせる機械音が鳴るまでに、風呂に入って夕飯でも作るかと絢は玄関に置いていたスーパーの袋を持ち上げた

あの旅館の出来事から数ヶ月
絢は新しい職場を見つけ、この地へと引越してきた

「しっかし、今日の現場は埃が凄かったな…
明日も作業着は必要だし、乾燥機付きを買って正解だな」

汚れて軋む前髪に触れながら、廊下の電気を点けた


ゴトリ


冷えた廊下を歩き出そうとした瞬間、固いものが落下したような音と共に、赤い物体がこちらへと転がってきた

絢は溜息を吐きつつ「またか…」と廊下の中ほどで転がらなくなった赤い…和服を着た人形を拾った

この和人形は、旅館から誤って持ってきた物だ

盗んだとかではなく、旅館から帰ってきてバッグを開けたらいつの間にか入っていた
多分、ソファの横に並んでいた棚から滑り落ちてしまったのではないかと推測している

人形は背中側から見た感じでは昔ながらの和人形なのだが…
表、つまり顔を見れば、普通の人形ではないとすぐに分かる

肌色ではなく真っ白な肌
白く長い髪
ワインレッドのような深みのある紅い眼

そして…

「なんの獣なんだ…?」

そう

人形の顔は、人ではなかった

それは犬や猫みたいなありふれた生き物ではない

ツンと尖った口吻と鼻
丸みを帯びている大きめの耳
尻尾も生えているのだが、汚れなのか元々そういう色なのか
先端から数センチの部分が若干色づいていて、かなり淡めのシナモンカラーだった

着せられた和服は年季が入っているのか、だいぶクタっとしているのでビンテージ品だと一般人の絢が見ても分かるのだが、不思議なことに服以外の汚れが見当たらない

「大方、あの女将の私物だろうな」

触れた布生地の良さからそれが高価なちりめんだと気づき、また難癖をつけられて弁償だのなんだの言われては堪らないと、速攻ダンボールに詰めて旅館に送った
これで安心…と胸を撫で下ろして数日後

なんと、返送されてきたんだ

段ボールを抱え、青い顔をして不躾に人の部屋を見渡す配達業者に事情を聞くと、旅館は廃業しているようだと言われた

まさかと思いパソコンで旅館のホームページを検索したが出てこず、もしやあの女将達も夢だったのか?と淡い期待を抱いたが、その期待はすぐに打ち砕かれる
それは、バッグに入ったままの古書と古ぼけた紙が顔を覗かせていたからだ


「きっと部屋が傾いてるんだろうな」

転がってきたのはそのせいだろうと、特に何も気にせず人形を小脇に抱えてリビングに入った
パチっとスイッチを押すと、新築に負けず劣らず、清潔感のある綺麗なリビングが目に入る

テーブルに袋を置き、2人掛けのソファーに人形を座らせてから再び脱衣所へ向かう
慌ただしく回り続ける洗濯物を横目に、絢は下着を脱いでシャワーを浴びた
温かなお湯が埃を洗い流していく

洗い終わり、浴室から出ようと扉に手をかける…が押しても引いても開かない


バコンッ


曇りガラスの部分を避けて扉を叩く
すると、まるで何もなかったかのように扉が開いた

「まったく、立て付けが悪いな」

文句を垂れつつ、買ったばかりで吸収が悪いタオルで身体を念入りに拭く

築年数が数十年と、昭和に建てられてだいぶガタもきているからここはやめた方が良いですよ…とオドオドしながらも引き留める不動産会社のスタッフを思い出した
なんで客に勧められないような物件を扱っているんだと聞いたら、いくら手放そうとしても縁でまた戻ってくるんだと渋い顔をしながら言ってたっけ?
この部屋を内見したいと言った時も、マンションに案内されたは良いものの、何故かスタッフは部屋に入ってこなかった

その様子から、事故物件か何かだろうなと察した

スタッフは何も言われなかったが、そこはバイトを雇ったか社員を使ってロンダリングしたか、事故から既に3年以上過ぎているとかで説明が不要なのかもしれない
内見してもおかしい所はなく、一通り見て回ってここを借りたいと伝えたら物凄く驚かれた

他人が聞いたら事故物件かもしれないのに、なんでそんな部屋を?と思っただろうが…


答えは単純明快

家賃が激安だったからだ






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