愚か者、なれど幸いなれ。1.
新しいスポンサー企業の本社ビルの屋上は、開放的でひたすら気持ちの良い場所だった。
エコロジーをアピールする意味で、広大な屋上一面は見事に緑化され尽くしていて、四季のテーマを表現した広い庭園に菜園までもが整えられている。
ただひとつ。
古びた石灯籠の脇にある、きつい赤色をした中華柄がバッチリ入ったベンチに笹薮の中のパンダの置物のある「日本庭園」だけが、残念感を漂わせている。
溜め息ものの、ややがっかりな日本庭園もどきはさておいて、虎徹が何より気に入ったのは、広々と敷き詰められた
香りの良い芝生スペースだった。
都会のオアシス。
言い古された言葉だがその場所は、無機質に切り取られた空の風景にまさに
"砂漠のオアシス"を目に映し出している。
「ここに目ェ付けといて正解だったなー」
ぐん、と目いっぱいに大きく伸びをしてそれから虎徹は、くぁぁと遠慮ない大きな欠伸をし、その若草色の上に座り崩れた。
それから、ダラリと寝転がった。
堅苦しいビジネスの話というのは本当に苦手で、何年やろうが慣れることがない。
緊張はしないが、しかつめ顔をつき合わせてのやりとりは、とにかく何より苦手なのだ。
もっと楽しくやったらいいだろうに、とまったく笑いもしない顔をずらりと並べる企業の面々を見てそう思ったのだが…。
会社の一大決心をロゴにこめている企業の立場としては、まさに社命を背負うヒーロー2人をそう気楽に扱う気など微塵もない様だった。
きっちり見定めてやらねば、というギンと張り詰めた空気の中、社長に会長、そして宣伝本部長に…と勢ぞろいした役員達のしかつめ顔を向こうにしても、バーナビーは堂々と、卒ない笑顔と嫌味ないソフトな態度と会話を混ぜながら相対していた。
バーナビーはその美しい顔に惜しみなく上質の笑みを絶やさず浮かべ、時折、役員たちをじっ、と凝視する。
すると見る間に、堅物役員たちの眉間に刻まれた深いハードボイルドなシワが、やわらかく(締まりなく)変えられていく一部始終を間近で見てしまい、ついうっかり失笑してしまいそうになって虎徹はひとり、笑いを必死に堪えてもいたのだ。
"ほんと、稀代のオヤジキラーだぜ"
横で見ているだけの虎徹だったが、バーナビーの"対人テクニック"にただただ感心していた。
オンオフの切り替えは呆れるほどヘタクソだが、こういうところは確かにバーナビーは嫌味なく巧い。
ビジネス話は得意としているバーナビーにお任せして意識は半分以上、その場にない状態で座って、経済用語にいかにも的にうなずきただ話が頭上を流れていくのを聞き、そして
時折バーナビーに振られる同意の際にそれらしく頷いて。
そんな2時間強を虎徹は辛抱強く過ごした。
そのせいか、解放された時には顔も体も完全に硬直しきってしまった。
『頷くだけでそんなに疲れます?午後の撮影、そんなで持つんですか、虎徹さん。』
嫌味を混ぜる事をきっちり忘れず笑いかけてくるその相方も、堅物揃いな新スポンサー相手では消耗したのだろう。
笑いかけてはくるものの、さすがにやや疲れた顔をしていた。
なので虎徹は、ざっと通された際に目を付けたこの屋上に、一緒に誘い出したのだ。
取材の撮影時間まではまだ1時間半近く
自由にしていられるとわかって、虎徹は早速、芝生に寝転がるという
提案をしてみた。
バーナビーは純然たる都会育ちで、山野の自然をまるで知らない。
嫌がられるかもと思いつつ連れて来たら、この綺麗で心地よさそうな芝の空間には目を見張り、珍しい言葉まで呟いた。
『こんな日に寝転がれたら…気持ちよさそうですね』
時にはそんな風に思うことがあっていい。
それで正解だと虎徹は顔を緩めながら大きくうなずいた。
『だろー?』
虎徹がさも自分の手柄の様に返事すると、バーナビーは
『ここ、こちらのスポンサーに感謝するべきでしょうね。貴方にじゃなくて』
などと憎まれ口を返しながら、それでも実に柔らかな笑みを浮かべて
この芝に目を細めてまで見入っていた。
吹き寄せる暖かな風に身を任せて目を閉じれば、望郷の想いに似た虎徹の感傷が少しばかりくすぐられる。
自分の決意の下に生きる、その道など知りもしないで殻に閉じこもっていたあの頃は、いつも1人、こうしてばかりいた。
子供の頃は、たった1人で見上げていた空。
それが、今では2人で見上げる青になった。
何にも変えられない幸福を得ていると感じる。
あの時。
1人のヒーローに助けられなければ、そんな事を感じられる自分は今、ここにはない。
感謝しても決して足りる事のない"英雄"を想い、胸奥に変わらず掲げ続ける虎徹には、何が彼の事実であるかなどまるで問題ではなかった。
あの時…。
バカげた決意だけを胸に街に出た自分が、ああしてレジェンドに出会い助けられる事がなければ…
ここにこうして居ないという事だけは、間違いなく確かだからだ。
"アホなガキだったよなぁ、俺って"
自らの昔に苦笑しつつ、虎徹は目に染みる青と白とを見上げた。
皆がまだ仕事に没頭しているだろう、この時間帯だ。
街の喧騒ははるか眼下に、空高くを漂う雲だけが頭上にある。
午後の日差しが眠気を誘う。
階下に飲み物を取りに行ったバーナビーを待つこの間にも、ほんの少し脱力しただけで眠り落ちてしまいそうになる。
こんな風に、茫洋と空を見てるだけの日があるのはいい。
これこそが、平和のあるべき形なのでしゃないかと虎徹は思う。
"事件なんて…もう一切どこにも起きない!って気しかしねえよなあ。"
青々とした空にふんわりと浮かぶ、真っ白な柔らかな雲。
見せるバーナビーの笑みも、役員たちの前での作り笑いとはまるで違って、
生きた綺麗な輝きにただ溢れていて。
本当に、穏やかな空の青が毎日続く街。
毎日がこんな平穏な世の中にしなくてはいけない。
そのために、己を惜しまず日夜、戦う。
もちろん本当に平穏の世がやってくれば、ヒーローなんてたちまちお払い箱だ。
自分たちが、いつか不要とされる世の中。
それがやって来た時にもきっと、こうして空を眺め上げながら眠りにつくのだろうか。
そうならいい。
そして自分が"お払い箱"になった必然をグジグジと愚痴りながらであっても、
燦々ときらめく陽光の下に、
青い空と白い雲とを見上げて、ただ寝転がっていられるのならば。
そんな取り留めのない思考の輪が虎徹を更なる眠りの世界に引き入れかけた、その時。
カチャ、とガーデンのフェンスが微かな音を立てて開いた。
それを見た訳ではなく、虎徹の耳にわずかな音として聞こえてきたのだ。
戻ったバーナビーかと思い、虎徹は眩しさにすがめた目だけで、そこらを追ってみる。
だが見つけたそれは、まるで違う人影だった。
(…続く。)