短編小説
□走った。ただがむしゃらに。
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「な、なあカチロー、俺、きつく、なって、きたんだけど〜」
ちょっと後ろの方から、堀尾くんがとぎれとぎれにそう言うのが聞こえた。
声がヘロヘロだ。多分、すごく疲れてるんだろうな。
でも、僕もそうだ。頑張りすぎて、苦しい。
僕は呼吸のタイミングを見計らってからしゃべった。
「う、うん、そ、だねっ」
「が…がんばろーよ!はあ…はあ…」
堀尾くんと、カツオくんと。
僕たちは、ひたすら走っていた。
そう、今日の部活のメニューはテニスコートの外周。
新しく海堂先輩が部長になってから、スタミナ重視のメニューとして外周が増えたんだ。
だから、もう必死。
正直、長距離走はちょっと苦手だ。
もともと体力があるわけでもないから余計にその意識は強い。
もうこの練習は何回もやっているけど、あんまり慣れた気がしないもんなあ。
毎回、半分くらいで疲れてしまう。
…ふう。ふう。
控えめに呼吸をしながら空を見た。
薄い水色がすごく綺麗で、日差しが暑い。
もう一周なんてしたら、倒れちゃいそうだ。
…◆…
青学は最高のチームだ。
立海戦を見てそう思った。
この荒井様が言うんだから間違いない。
俺はずっと応援だったけど、もう十分。
三年生が引退した後の軸は桃城と海堂だった。
まあ、当たり前だ。
全国まで行った実力。俺たちがかなうはずもない。
外周だって、二人が真っ先に着いて終わらせちまう。
だから、ランニングですでにバテバテの下級生を見ていると少しだけ不安になってくる。
最初よりも長くなった距離も、大会の試合に比べたら全然きつくないんだろうし。
経験の豊富さだって度量だって、奴らはなにもかもが俺たちより勝っているわけで。
…でも、俺だって追い付いてみせないといけないんだ。
それに、きつかった外周も今はそこまで息があがってない。
体力って知らないうちについてるもんだな、と思う。
そう、確実に進んでいる。
ふいに、不敵に笑ってみた。なんだか元気が出てきた。
「…よーっし!!」
ぐっ、と地面を踏んで叫ぶ。
このまま強さで引き離されすぎないように頑張らねーとな。
少しでもあいつらの負担を軽くしたい。
…◆…
空から注いでいる太陽の光が俺たちをじりじりと照りつける。
夏になるとあんなにいた新入部員もだんだんと減っていって。
まわりを見れば、もうこれだけしかいない。
散り散りにグラウンドに落ちた汗が砂に混じる。
それを踏んで進んでいく部員たちを見て、俺はそんなことを考えていた。
…青学の部長には、海堂が選ばれた。
もしかして俺かも、とかいう期待もまあ無いわけじゃなかったけど。
戦績とか性格とかの問題もあるだろうし、そこはぐだぐだ言っても仕方ない。
でも、それを言われた時はやっぱり多少驚いた。
『…部長、やる事になった』
…本当に、なんでも無い日。
何の前触れも無しに、アイツが押し流すようにそう言ったのを覚えている。
俺はというと、背中を向けながら、唐突すぎる知らせに内心動揺しつつも何を言うべきかを必死に考えていた。
応援する。
ほめる。
憎まれ口を叩いてみる。
選択肢はいろいろあったけど、悩んだ末に並べた候補の一番上にあるものを選んだ。
なるべく感情を表に出さないように、気のない素振りで答えたのだ。そうなのか、と。
…少し無愛想すぎたかもしれないけど、饒舌になってしまうよりかは遥かにマシだったと思う。
もちろん、なにか言ったところで素直には喜べないだろう。けど、多分それで良いんだ。
まだ結構先を走っているアイツの背中を見る。
あと一周で、ゴール。
…◆…
新しい部長は俺だった。
候補は俺と桃城の二人で、桃城にも同じようにチャンスはあったという。実力も、リーダーシップも。
ただアイツは、部長になるには優しすぎたらしい。
…あれが優しいだなんて、たとえ逆立ちしても俺にはわかりそうにないが。
けど、先輩たちが言うことだから正しいんだろう。…多分。
『…ふーん、そっか』
ふいに、部長になった時のことを思い出した。
暗い部室の中で桃城にそれを話した日、アイツは背中越しに一言だけそう言っていた。
悔しがるでも、ねぎらうでもない。
ただ、抑揚のない声でぽつりと呟いただけ。
でも、余計な事を一切言わないあたりが逆にアイツらしかった。
普段悪態をつきながら、ちゃんと、背中を押してくれる。
部長になって、まず新しい青学を作るためにメニューを練らないといけなかった。
その一つが、このコートまわりのランニング。
試合をより長く続ける体力をつけるために、少しきつめに設定してある。
もっとも、一番は俺だ。
根性。それが、俺の取り柄だから。
外周メニュー後半、佳境に入った今でも、俺の速度は他の部員の比じゃないだろう。
ザッザッザッザッ…
そんな風に思った直後。
後ろから割と早い、規則正しいテンポで砂を蹴る音が聞こえた。
そしてそれはだんだんと近くなってきて。
俺は無意識に口角をあげていた。
追い付いてきやがったか…
このままだと、抜かれる。
少し考えてから、俺はその気配を遠ざけるようにペースをあげて走りだした。
振り切るように、ゴールを目指す。
胸が、熱を帯びた気がした。
…◆…
最後の一周まできた地点。
俺の気配を感じたのか、海堂はさらにターボをかけて走り出した。
アイツとの差が徐々に広まっていく。
(おいおい、マジかよ)
簡単に引き離されるのは悔しいから、俺も力を振り絞る。
みるみるうちに他の部員を追い越して。
また、平行。
俺はもっとペースをあげた。さすがに、苦しい。
…アイツも、苦しいんだろうか。
そんなことを一瞬考えて、俺はすぐにかぶりを振った。本当はそんなの、どうだっていい事だから。
俺は俺のペースで進むんだ。
──そう。並んで進みたいなんて、思わない。
けど…一緒に高みを目指すのは悪くないと、そう思えた。
きっと今俺は笑っているんだろう。
だって、アイツも笑っているように見えるから。
後ろを振り返ってみる。意外と一年生がそんなに遠くにいなくて驚いた。
ちゃんと追い付いてきている。
走るうちに、ゴールが近くなってきた。ストップウォッチを持った先生が立っているのがぎりぎりで確認できる。
「おい、桃城」
ふいに、海堂が前を向きながら呟いた。
「…何だよ」
「今日は、飛ばすぞ」
「は?」
言い終わるや否や、アイツのスピードは倍くらいになった。
一体どこにそんな体力が残っているんだ?
そう考えるより先に、俺は反射的に足に力を込めた。
もうへとへとに疲れているのに、全力で走るこの感覚。
全てをかなぐり捨てるような、変な感じ。
熱をはらんだ空気が顔を叩く。
世界中の色が全部混ざったみたいに左右の風景が流れていく。
限界を超えて、疾走。心臓が破裂しそうだ。
(俺だって、飛ばすからな…!)
これで本当に、最後の一歩。
やがてストップウォッチが二回押された。
二人がゴールしたのはほぼ同時。
俺たちはコースからはずれて、倒れ込むようにして寝転がった。
そして漠然と目に入ってきたのが、空。
鱗雲が綿みたいだ。とてもきれいに散らばっているように見える。
急に視界が暗くなった。海堂が俺を覗き込んできたからだ。
「ち、くしょー、負けちまった…」
俺は、ぜいぜいと呼吸に喘ぎながら呟いた。
「…当然だろ」
「…へっ、言うねえ…」
まだ余裕だといった態度。
でも、奴も相当汗だくだった。やっぱり全力だったのだろう。
まだ息が整っていない。
俺がぐっと起き上がった時には、驚いた事に一年生は全員揃っていた。
絶対最後の全力疾走で差がついたと思ったのに。
それに、もう一周出来そうなくらい生き生きしていた。
やっぱり、成長しているんだ。何ヶ月かの間で。
なんだか急に泣きそうになった。なんでかはわからないけど。
…夏から秋。秋から冬。
そしてまた、春。もうその頃には俺はいないだろうけど。
それまでにもっと、こいつらと走れたらいいなと思った。
走った。ただがむしゃらに。