文章

□思考回路停滞中
1ページ/1ページ


「エルシャール」

彼に名前を呼ばれるたびに、感じた微かな違和感。
時計の歯車が一つだけ噛み合っていないような、何かが違うという感覚。
それは久しく感じていなかった“ナゾが解けない”という、いらだたしいような愉しい気分を思い起こさせた。
ひとつひとつ整理して考えてみるがなかなか真相に辿り着けない。
なぜ彼は私のファーストネームを知っていたのか。
知っていたうえでなぜ隠そうともせず私を呼ぶのか。
ナゾ解きの腕もさることながら、自作であろう機器の完成度。
さらに考古学の知識の豊富さ。
それは建築、言語、文化どれをとっても申し分ない。
彼は名のある考古学者なのか?
いや、前に会った時「誇り高き一科学者」と名乗っていたはずだ。
そうなると彼の専門はあの仰々しい機械類の方なのだろう。
だとすればあの知識は独学で?
その過程で私の事も知った可能性もある。
しかしだからといって私達の前に現れる理由が解らない。
それに私も私だ。
あれほどの犯罪者の動向を追わず、毎回見過ごしてきたのはなぜなのだろう。
自分の事ながらはっきりしないこの感覚。
考えている内に思いの外時間が経っているという事がこれまでに多々あった。
悩みの種であると同時に、私の探究心をここまで掻き立てる人物はこのロンドンにはいなかった。
「エルシャール」
「…なんでしょう」

あの事件があってから、彼はよく素顔で私に会いに来るようになった。
今日もアポイントもなしに現れて、いつもと同じ質問を私に投げかける。

「一緒に暮らそう?」
「また、その話ですか」

私の研究室に突然訪れた彼は一緒に暮らそうと持ち掛けてきた。
何かの冗談か、それともデスコールであったことを口封じするためか。
そう考えてみたが、こちらを見る彼は至って真剣で、こちらの動向をみて戸惑いの表情すら浮かべている。
そんな姿を見てしまえば私も真剣に考えなければいけないわけで。

「考えさせてください」
「…わかった」

毎回尋ねられる度に先延ばしにしてしまう。
彼と暮らす。
考えてみるがなかなか想像出来ない。
彼と彼の執事と暮らし、考古学の議論を交わしたり興味のある機器についても教えてくれるかも知れない。
それはとても魅力的で、惹かれずにはいられない提案だった。

「まあ無理にとは言わないさ。今日は他にも用事があってね、見てもらいたい物がある」
「わかりました。拝見します」

特に気にした様子もなく彼は鞄から目的の物を取り出し、彼が書いた論文だと少し自信ありげにこちらに差し出した。
向かい合って話していた距離がそれを覗き込むことによって近くなる。
ちらりと投げた視線が彼の精悍な顔を捉えると、私の心臓は早鐘を打つように速く鳴った。
顔に熱があつまりシルクハットを被り直してなんとかやり過ごす。
ああ、私がこんな様では一緒には暮らせない。

ナゾはほぼ解けた。
エルシャールと呼ぶのは一種の洗脳だろう。
繰り返し呼ぶことで私に名前を刷り込ませるため。
名前を知っていたのは私の実の兄で、私がエルシャールになるよう配慮してくれた張本人だったから。
科学だけでなく考古学にも詳しかったのは文明のナゾを解明するため学んだから。
私たちの前に現れたのはアスラント文明に関わる遺跡に私たちがいたため。
私が彼を追わないのは、私が彼に好意を持っているから。

何時からなのかは自分でも解らない。
彼に呼ばれる度に、関わる度に惹かれていって、今では表情にまで現れる有様だ。
彼と暮らすのはとても魅力的で、考えただけで舞い上がってしまう。
しかしそれは彼が私と同じ感情を持っていればの話で、彼には妻がいたというし、とてもじゃないが難しいだろう。
しかも私たちは兄弟だということが分かってしまった。
これ程まで不毛なこともない。真実を知ってしまってから彼をなんて呼んでいいかすら解らない私に、彼と暮らす資格などあるのだろうか。

「なんだが、君はどう思う?…エルシャール」
「ん?っああ、すみません。考え事をしていました」
「ははっ!どうやら今日は議論を交わす事は難しいようだね」
「すみません」

仕方がないとでも言うように苦笑する彼を見て、思わず顔が赤くなる。
申し訳ないと思う反面、怒りもせず笑ってくれる彼が好きなんだと再認識した。

「君も忙しいだろうし、今日は失礼するよ」
「…もうですか?」

勝手に口をついて出た引き止める言葉に彼も私も驚いて一瞬時が止まった。
何を言っているのだろう。
だけど行ってほしくないと思うのは本心で、どうかまだ居てほしいと焦がれてしまうのを止められない。

「今日は学会があるんだ。また来るよ、エルシャール」

少し赤い顔で微笑んだ彼は立ち上がり論文を仕舞い始める。
帰り支度をする彼に名残惜しい、行かないで欲しいと思う自分が女々しくて嫌になる。
立ち上がって仕方なしに彼を見ていると、支度の済んだ笑顔の彼が近付いてきた。

「また来るから、返事を考えておいてくれ」
「ええ。…次までには」
「じゃあまた」

ドアの方へ向かおうとした彼はふと立ち止まると、いきなり私の手を取った。
予想外の行動に意味が解らず何も考えられずにいた私に向かって彼は笑う。
そして気取ったように私の手の甲に唇を落とした。

「言い忘れていたが。私は好意を持たない相手に対し、共に暮らそうだなんて提案はしないからな。様々な事を含め、よく考えておいてくれよエルシャール」

手を離すと後ろ手に片手を上げて彼は颯爽と出ていった。
心なしか彼の顔も赤かった気がする。
頭が働かない。
離された手すらさっきの形のままだ。
手が熱くて、彼の少しかさついた唇の感覚が残っている。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
ずるずると座り込むのを止められない。
手を見詰めているだけでさっきの光景が蘇って憤死しそうだ。
今だけでいいからルークも学長も来ないで欲しい。
こんなにやけた顔を見られたら私は英国紳士失格だ。
ああ、期待してしまってもいいのだろうか。
彼も同じ気持ちだと、一緒に暮らしてもいいのだと。

解いても解いてもナゾは深まるばかり、新しいものが出てくるばかりだ。
彼は私の気持ちに気付いているのか。
彼も私に好意を?
この行動の意味は。
彼が次にいつ来るのか解らないが、早めに答えを出しておかなければならない。
そうでないと私は夜も眠れない。

ああ、彼のために頭を悩ます日々はまだ続きそうだ。


END



リクエスト頂きましたサーハイマンさんと教授のお話。
教授が乙女過ぎた。






[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ