何もない。
何も無くなった。
もう何処かへ行く必要もないし、何かをする必要もない。
だってここには私しか居ない。煩わしかった義母も、苛立ちばかり与えた同居人も、勿論ママだって。
目の前に広がる赤く染まってしまった海なんてもう見飽きた。
いいのよもう。どうせ死ぬんだから。それまで待てばいいだけ。
いつか立てなくなって、傷が膿んで腐っていくのをただここで何もせずに。
ざらざらした砂浜に座り込んで、膝を抱えて目を閉じて。
死を待てばいいだけ。
「またここにいたんだね」
……
見なくたって誰だかわかった。そう、厳密に言えばこの世界に取り残されたのは私だけじゃなかった。
ただ、私が知っている人間でもない。
最初に出会った時、声をかけられて今日みたいに顔を上げなかった訳じゃない。あの時反射的に声に振り返って…酷く失望した。
声でわかった筈なのに。私が望んだ人じゃない事くらい。
こんな世界で更に気分を害されるのは願い下げだ。
だから私はそいつを見ない。
俯いたままぎゅっと瞼を塞ぐ。
大体にして声の主は私がどんな行動に出ようとお構い無しなのだ。
…ほら。
「そうやって蹲っているのはとても君らしいけど。本来の君はとても臆病で、繊細だから」
ああ、五月蝿い。あんたが私の何を知ってるっての。
「だけど、…今までの君らしくはないね」
五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
何よ、どうしろっての。
今更取り繕う必要なんてないじゃない。誰もいないのよ。誰がそんな私を見るっていうのよ。
無駄な努力だわ、バカらしい。
「僕は使徒だよ」
…前にも聞いたわ。
それがどうしたっていうの。こんな世界に平然として存在するだけでまともな人間じゃない事くらいわかってるわよ。
「殲滅しないのかい?エヴァのパイロットなんだろう」
「…………何のために?」
久しぶりに動かした唇は上手く動かなくて、声は擦れていた。
抱え込んだ膝に吸い込まれた呟きは決して大きくはない。
それでもそいつは聞き逃さなかったようで、少しだけ声に驚きを混じらせる。
「君の声、初めて聞いたよ」
そりゃそうよ、あんたと会ってから今初めて喋ったんだから。
どうでもいいわ、もうどっか行ってよ。
「殲滅すればいいよ。そうすれば世界が元に戻るかもしれないよ」
「嘘ばっか」
事も無げに「うん、嘘だけどね」と言って、なにが楽しいのかそいつは笑った。
私は笑えないのに使徒であるそいつは笑ったのだ。
もうどっちが人間なんだかわかったもんじゃない。
ぎゅうっと唇を噛む。久しぶりに強烈な不快感が襲ってきた。
「もうどっか行って。本当に殺すわよ」
「いや、君は殺さないよ」
「どうしてそんな事わかるのよ!」
苛立った。
当たり前の様に言うから。私が人の形をしたものを殺せないとでも思ったのか。だとしたらそれは検討はずれの勘違いだ。
「だってそんな事をしたら、君は本当に1人になってしまう」
息を飲んだ。
全身が逆立つ。手のひらに爪が食い込む。
殺してやりたい。
だってこいつは知っている。
私が絶対に自分を殺せない事を。
「殺したいかい?」
「………殺してやりたいわ」
なんて意味のない応酬。
どうせそんな事出来ないのに。
涙の気配がした。情けない。悔しい。
辛い。
辛い。
抱えた膝を更にきつく抱く。
震えていたから。
怖い。
一人が怖い。
苦しい。
怖い。
怖い。
苦しい。
「……ねぇ、」
ああ、私って馬鹿。
「助けて」
私の小さな呟きは、何の余韻も残さずに消えた。
隣から返答はない。
本当にバカ。
わかってたのに。
なんにもしてくれないって。
助けてなんてくれないって。
涙と嗚咽だけがその空間を揺らす。
1人だ。
私はどうしたって、この世界にたった1人だった。
「助けて」
今日もまた、彼女は僕を見ようとはしない。
そうして1人で泣く。僕の存在など気付かないように。
彼女は気付かない。
僕はずっと彼女に手を伸ばしているのに。
彼女が顔をあげて、僕の手を握り返す事なんてあるのだろうか。
それでも僕は手を差し伸べ続ける。
彼女が僕の手を握り返すまで。
「助けて」
君が、そう望むのなら。
(僕は手を伸ばしているよ。後は、君がそれに気付くだけだ)
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131006.