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□有能な彼_基緑
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リズミカルなキータッチの音が室内に静かに響き渡る。パソコンに打ち出された文字を見つめる。視界がぼやけて何故か頭に内容が入らなかった。

そろそろ限界か……。


もう一度気合いを入れ直そうとしたが、虚しくもそのやる気は起きなかった。一度休憩をいれようと考えた瞬間、ノックが2回聞こえて、社長室のドアが静かに開いた。俺は直ぐに誰だか分かった。俺のお嫁さん兼有能な社長秘書の緑川リュウジだ。


「あ……社長」
「タイミングが良いね緑川。……丁度休憩をしようと思った所なんだ」
「そうですか……あっ、ならコーヒー淹れてきますね」


流石。有能な秘書はそのへんと違って行動が早いし、なによりも気が利く。…本当にありがたい。贔屓目だけではなく緑川の存在は俺の支えとなっている。緑川が側で秘書として支えてくれなかったら今の俺は上手くいってなかっただろう。やはり緑川は自分の精神的な問題では必要不可欠な存在だ。こうやってさりげない気配りができる緑川は相当なものだと思う。しかも美人で可愛いくて、たまに素直になったり……おっとこれ以上は止めておこうかな。


「……社長、何ニヤニヤしてるんです?」


コーヒーを淹れ終えた緑川がやって来た。溜め息を吐き、不審そうな顔をして、緑川はコーヒーカップをデスクトップに置いた。

おや、そんなに顔に出てたかな?
……でもしょうがないよね。俺の緑川が秘書としても妻としても優秀すぎるのが悪い。


「んーなんでもないよ?」
「……はぁ、そうですか……。」

未だに緩んだ顔を戻さずに俺はコーヒーカップに手を掛けて、それを口に含んだ。
……うん。やはり緑川は優秀だ。この香りと言い、味と言い、完璧だ。


「……少し休憩したら、しっかり作業してくださいね。社長?」


何故かまた溜め息を吐かれた。
……俺、そんなにしっかりやってないかな?
緑川の反応に俺は少し不安になった。怒ってるかもしれない。


「あ、あぁ……しっかりやるよ。緑川にも叱られないようにするために」
「……そうして貰えるとありがたいです」


ジロリ、こちらの目を見据えている緑川。……この場合は睨み付けてる、の方が正しいかもしれないな。
やはり俺が仕事をしっかりやらないから怒ってるのだろうか?


「み、緑川……?」
「…………」

何を思い立ったのか、緑川はデスクトップに手を置き、俺の顔へと手を伸ばした。いきなりの行動に少し驚いてしまったが、その手は俺のメガネに手を掛ける。そしてゆっくりと顔から外していかれ、それは俺の胸ポケットへと納められた。


「……あまり無理はしないでくださいね?顔色が日に日に悪くなっていますよ」


確かにここ数日は働きづめで充分な睡眠がとれない日が多かった。だけど、それ以外にも緑川が不足してるってのも原因のひとつだと思う。
できる限り緑川は早く帰らせてるつもりだが、現実、そう甘くはなく、緑川にも苦労をかけている。緑川だって大分疲れているはずだ。
仕事が終わるのが2、3時になってしまい、家に着いたらすぐに寝る始末。緑川にだってロクに触れられなかった。
会社では社長と秘書という関係なので、そこまでイチャつけないのだ。


「緑川……お前もあまり無理はするなよ?倒れられたりしたら困るからね?」
「社長に言われたくないですよ。疲れてるって顔に書いてありますよ?……まったく、こっちの方が気が気じゃないんですからね」


そんなに俺は疲れてる顔を出してしまっていただろうか……これからはできる限り気を付けるようにしよう。緑川にはこれ以上、あまり気を遣わせたくない。


「気を付けようとしても無駄ですよ。……もう何年も付き合ってきてると思ってんだ」


……参ったね。これじゃあ隠し通せる自信がなくなってしまった。もう、何年も付き合ってるのに、傍に居るのに、隠し通せる訳がなかったんだ。何故かその事実が妙に嬉しくなってしまった。


「ふふっ……それもそうだね……」
「またニコニコして…」
「いや、なんか嬉しくなっちゃってね……」


変なの、と言われたので、いつもの事だろ?と返してやったら、それもそうだな、って更に返された。


「……そろそろ休憩はおわりましょうか」


その言葉を聞いて名残惜しくなってしまった。
緑川との二人の時間が終わってしまうのが寂しくなった。


「はは、ちょっと名残惜しいね?」


すると、緑川は何かを考え込むように腕を組んで、深く唸る。暫くして何かを思い付いたのか緑川は顔を上げた。
緑川は直ぐにデスクトップに片手を着いて、右手で俺の頬を包んだ。そして顔が近付き、唇にはいつもの触感が、一瞬だけ触れた。


「……これが落ち着いたら、満足するまで相手するから、な?」


……やられたよ。真っ赤な顔して、そんなこというなんて反則じゃないのかい?

そして緑川は慌てたように離れて、しっかり終わらせてくださいね!と顔を真っ赤にしながら部屋を後にした。
俺はいきなりの出来事に少し固まってしまった。……あの緑川からのお誘い。これは早く仕事を終わらせなくてはいけないな。


「やっぱり緑川は可愛いなぁ」


誰も居ない部屋の中で一人にやけていたのは言うまでもない。



END.

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